【風雲児新田義貞12】

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正伝楠木正成
楠木正成なる人物:
話は、だいぶもどって、後醍醐天皇が、まだ隠岐へ流される前のこと。笠置山に立てこもっていたときの話です。天皇の夢に、御所の庭の巨木があらわれ、二人の童子が、その巨木の南の席に座るようつげたのです。木の南、つまり楠にたすけられ、御所の南の席につく、つまり政務を司ることができるというおつげでした。さっそく河内の国にすむ楠木正成が、召しだされ、以後、後醍醐天皇の忠臣として仕えたのでした。
赤坂城で挙兵した楠木正成は、後醍醐天皇の笠置山が落ちると、城を焼き、一時姿をくらませましたが、1332年暮れ、吉野の護良親王の挙兵に呼応し突如復活して赤坂城を奪い返すとともに、金剛山の千早城にたてこもり、以後、北条氏の拠点六波羅探題が陥落するまで、奇策をもちいた素早い攻撃で幕府軍を翻弄しました。およそ半年間、小数の山岳ゲリラ戦で戦った楠木正成は幕府の大軍を疲弊させ、倒幕軍の勝利に大いに貢献したのでした。
忠言:
さていくさの場では派手な活躍をした楠木正成ではありましたが、建武の親政も順調な時期においては、さほどの政治的手腕も持ち合わせていませんでしたので、とくに目だった活躍はありませんでした。猛進型の楠木正成には政治的な駆引は馴染めなかったのです。
しかし、そのいくさの腕が再び必要になる時がきました。足利尊氏の反逆でその討伐隊を編成た新田義貞の敗北で、にわかに京の後醍醐天皇に危機がおとづれたのです。皇軍の奮起で、どうにか足利尊氏を九州方面に退けたものの、あいかわらず公家一統の政治を強引に進めようとする公家達の姿をみて、楠木正成は不安を感じないではいられませんでした。もともと足利尊氏の反旗は、足利尊氏個人の私欲だけではなく、それは後醍醐天皇による親政に不満をもつ武士達の憤りの集積のような行動だったのですからその誤りを正さない限り、同じことが何度も繰り返すことになります。
楠木正成は、武家の立場の容認を提言しました。つまり、公家一統の理想を一時棚上げし、武士の統率力のある足利尊氏に武家の統率を任せ、全国の治安を回復させることを優先させるという提案でした。が、今は少なくとも京の周辺からは足利尊氏の勢力は消えていましたので、その提案に耳を傾ける者はありませんでした。
朝廷が無策のまま無益に時間を浪費する間に、ついに九州地方をたったの一ヶ月で平定した足利尊氏率いる大軍が、瀬戸内から進軍を開始しました。楠木正成の危具が的中したのでした。
楠木正成にも、新田義貞の援軍として兵庫へ行くよう朝廷からの命が下りましたが、山岳ゲリラ戦を得意とする楠木正成は天皇を比叡山へ避難させ足利軍を京へ誘いいれた後に山上より攻撃する作戦を提案しました。この提言は、公家たちをも戦火にまきこむ事になりますので、市街戦を好まない公家達により却下されました。楠木正成は失意のまま、戦場へ向いましたが、その消極姿勢が、やがて足利軍上陸を水際で防ごうと意気上がる新田義貞軍の全軍の闘志に水をさすことになるのでした。
「寝返り」を常道とするいくさでは、勢いを最も重要とします。その点、なんの抵抗もなしに足利軍を京都市中へいれ、天子みずから避難したのでは、反撃の前にほとんどの豪族が朝廷の敗北と受取り足利軍に寝返ってしまいます。やはり楠木正成の提案には元々無理があったのでした。しかし楠木正成は最善策と信じた自分の戦略がいとも簡単に退けられたことで、すでに官軍の敗北は決定的とうけとってしまいました。「今度の戦いは必ず敗北する。自分の死に場所になるかもしれない。」とさえ本気で考えるようになっていました。
桜井の別れ:
「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ・・」という歌があります。戦前の教育をうけた人なら、だれもが知っている小学校唱歌中の名歌です。良い歌は思想とは関係無しに歌われてもいいのではと思うのですが、学校唱歌には二度と復帰できないでしょうね。もっとも足利地方の住人としては、「・・世は尊氏のままならん・・・」なんて部分は好きではありませんが。
楠木正成は、兵庫での足利尊氏との決戦にむかう途中、桜井の駅にさしかかった所で、嫡子の楠木正行(まさつら)に帰郷を命じました。「おまえはいかに十一歳といえど、もう一人前の武士だ。この父亡き後は、朝敵足利に対する者がなくなってしまう。故国に帰り父の意志をついで最後まで金剛山で朝廷の為に朝敵と戦うように。」と諭すように話したのでした。死地に赴く形相の父親に、正行は、「父をのこして、なんで帰られましょう。ぜひ死出の旅のお供を」と願いましたが、楠木正成は、これを叱り、先年後醍醐天皇より賜った宝刀を正行に手渡し、再度帰郷を促したのでした。
涙ながらに立ち去る正行。これが楠木正行にとって父の姿を見る最後になりました。そののち正行は亡父の意志を継ぎ、最後まで南朝に従って足利氏と戦ったのでした。
湊川へ:
1336年5月24日。楠木正成は、決死の覚悟で足利尊氏との決戦場となる湊川へと到着したのでした。湊川には、すでに新田義貞の主力官軍が到着しておりました。一夜明ければ、そこは歴史を大きく変える大戦場でした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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尊氏足利尊氏