【風雲児新田義貞11】

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尊氏敗走
京都防衛戦:
1336年正月。皇軍新田義貞の敗戦で、追う立場になった足利尊氏は、そのまま京に攻め登るべく、軍を進めました。勢いづいた足利軍に加勢しようと、四国山陰山陽の豪族が次々に立ち上がり西から京をめざしました。
守る皇軍は名和長年・千種忠顕・結城親光の連合軍で東の勢多の防御とし、楠木正成が宇治で防衛線を張り、南の防衛には新田義貞が淀大渡を脇屋義助が山崎を防衛することになりました。
1月9日。京を取り囲む形で戦いは開始されました。
足利尊氏の主力は、宇治の楠木正成を攻撃することで、突破口を開こうとしましたが、楠木軍の粘り強い戦いに、膠着状態。そこへ、足利軍に中国四国からの援軍が到着したため両軍の戦力バランスが崩れ戦局はにわかに変化しました。
足利尊氏は援軍に脇屋義助ひきいる山崎を総攻撃させました。竹ノ下での戦略を再度用いたのです。守備の一角でも崩れれば、相手の防御はすべて崩れさる。これが尊氏の計算でした。
脇屋軍には東から回った千種忠顕軍が合流し、防衛しましたが、西からの全軍が総攻撃してきたため、総崩れになってしまいました。足利尊氏の計算はズバリ的中し、脇屋軍の敗走部隊が新田義貞軍になだれこんで混乱したため新田軍は統制力を失い、ここを突破口として足利軍は京の市街へなだれこんでいったのです。
皇軍の惨敗でした。なんとしても後醍醐天皇を敵に奪われてはならないと新田義貞は、天皇に伴って近江の東坂本まで落ち延びて行きました。1月11日。足利尊氏は入京し新田軍の本拠地、東坂本の攻撃のための陣容を整えにかかりました。
「公家が破れた。」関東での戦いが新田足利両家の武家主導権争いであったのに対し、都周辺の戦いは、人々の眼には、武家と公家の戦いに映ったのでした。
奥州援軍と尊良親王援軍:
1月14日。斯波家長の執ような攻撃で出兵が遅れに遅れた奥羽軍が、北畠顕家に率いられてようやく東坂本へ到着しました。北畠顕家の奥羽軍は、一度に鎌倉を攻め落とし、破竹の進軍を続けながら京都まで駆け登ってきたのでした。意気上がる奥羽軍のその勢いが冷めぬうちにと新田義貞は、新田北畠連合軍を編成すると、1月16日一挙に足利尊氏を京都からおいはらうべく、突撃しました。北畠軍の気勢に押され、足利尊氏は一旦兵を引きましたが、翌日には態勢を整えて、略奪に走り統制のきかなくなった北畠軍を破り、新田義貞本陣を包囲してしまいました。絶対絶命のピンチに新田義貞の最も信頼していた執事の船田義昌が命を捨てて新田義貞の退路を作り、義貞はどうにか東坂本へ逃げ帰ることができました。
執事船田義昌の戦死は、新田義貞にはこたえました。わずかなおごりと油断が招いた結果に、義貞は自らを責めました。失意の義貞に、しばらくは新たな戦略すら浮かびませんでした。
しかし、足利尊氏の京都防衛もこれまででした。新田義貞が、足利尊氏の鎌倉を攻撃する際、東山道から同時進行して鎌倉攻撃する予定だった尊良親王を擁する官軍が、竹ノ下の戦いに間に合わなかった為に無傷で引き返して来たため、東坂本に陣を張る官軍は、一挙に大軍勢となったのです。気を取り直した新田義貞は、ついに1月27日全軍総攻撃を決行しました。
この日の総攻撃は京都攻防戦の中でも最も大きな戦いになり、さすがの足利尊氏軍も防戦一方となって、じりじりと兵庫の方向に後退しはじめました。そして2月7日、打出ノ浜まで後退し、後のなくなった足利尊氏軍は、無念、海路から援軍に来た瀬戸内の豪族たちの船に便乗し九州方面へと落ち延びていったのでした。
官軍の凱旋:
官軍の完全勝利でした。あれほど目まぐるしく一進一退を繰り返した末の足利尊氏の敗走は、だれの眼にも再起不可能な大敗と映りました。あまりもの完璧敗北に、あるじを失い得意の「寝返り」も出来なくなった多くの足利軍の敗残兵は、官軍への降伏の証として、二つ引き両の足利紋の中心を塗りつぶし、新田紋の大中黒にみせかけて、凱旋の新田軍に追従して行きました。2月25日、得意の後醍醐天皇は、元号を延元とあらため、これで皇室の権威に反抗する者は駆逐されたと安堵しました。
平和を取り戻した都で、足利一族の領地の恩賞配分がおこなわれ、後醍醐天皇のもと、親政は再出発の機運が高まりました。戦で都に集まっていた諸将は、食料不足もあって、それぞれの国元へと帰って行きました。奥羽軍率いる北畠顕家も3月24日、北国への帰途につき、途中鎌倉を占拠していた宿敵斯波家長を相模の片瀬でいとも簡単に破り敗走させ二ヶ月後には多賀国府に堂々の凱旋を果たしました。足利尊氏の破れた足利方など、もう敵ではなかったのでした。
勾当内侍(こうとうのないし):
戦に明け暮れた新田義貞にも、一時の休息がおとづれました。たとえそれが実在したかどうか疑問であっても、やはり英雄には美女が似合うようで静御前のいない義経記など、なんの価値もない....は価値感の違いでした。新田義貞は、後醍醐天皇より後宮の美女、勾当内侍を賜ったのでした。『戦勝のほうびに女をくれる』などとは、何とも野蛮な思考ではありました。新田義貞にしばしの幸福な時間が過ぎて行きました。
しかし、新田義貞にとって戦いはまだ終っていませんでした。新田義貞の求めていた物は、後醍醐天皇の権威の回復でもなければ京都の治安回復でもありません。武士による強力な統率力のもと、全国がひとつにまとまる真の平和な世界。それこそが新田義貞の目指す天下取りの夢でした。しばしの平和とはいえ京を一歩出るとそこは、天皇の権威など全く及ばない社会が存在していました。京都以西の平定。それが天下を狙う新田義貞の次なる目標でした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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