【風雲児新田義貞13】

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湊川の合戦
光厳上皇の綸旨:
敗走しながら足利尊氏は、冷静にその敗因を分析していました。破竹の進撃をおこない都を占拠したにもかかわらず、都周辺の豪族の多くが完敗したはずの新田軍に付いてしまい敗れても敗れても増える敵に根負けした形で敗れたのです。敵軍のその人気の秘密はただひとつ。あちらが官軍でこちらが賊軍という立場でした。都周辺では、この違いはあまりに大きかったのです。錦の御旗の威力でした。今後どんな大軍をもってしてもこの賊軍の立場を何とかしないかぎり京都での戦いは不利です。これを解決する方法はひとつ。自ら官軍として錦の御旗をかかげることです。新田軍との戦いに、双方が官軍として出陣するなら官軍賊軍の区別が戦いの争点にならずに、実力のあるほうに有利に働くはずです。もともと争いの発端は持明院統と大覚寺統の皇位両統迭立の契約を後醍醐天皇が無視したことから始まったもの。すれば現在の天皇としてふさわしいのはその皇位を無理に剥奪された形になっている持明院統の光厳上皇となる。足利尊氏の苦肉の論理で光厳上皇の綸旨をいただいて足利尊氏は九州へと落ちていきました。
白旗城攻め:
さて新田義貞は、足利尊氏を敗走させたあとの目標を赤松円心の居城、白旗城に定めました。赤松円心は、北条倒幕で活躍したものの護良親王に近い立場を取ったため、恩賞も間々ならず、朝廷に不満を抱いていたとろこへ、足利尊氏の鎌倉攻めに従軍したのをきっかけに足利尊氏と共同歩調をとって足利氏側についていました。
足利尊氏側についたとはいえ、もともとは足利尊氏を最も警戒していた護良親王の側近として仕えた赤松円心ですから、その立場は微妙でした。新田義貞は当初、赤松円心の説得工作をおこない、官軍に帰属するよう促しました。しかし足利尊氏が敗走しながらも瀬戸内水軍を味方に引き入れ元気な様子を見た赤松は、新田義貞の説得工作を拒否したのでした。新田軍対赤松軍の戦いが播磨で開始されました。優勢のうちに赤松軍を追い込む新田軍は山城をひとつづつ、つぶしながら赤松円心の本隊にせまります。赤松軍は退路を断たれた形で居城白旗城にこもりました。
3月27日。新田義貞は、その本陣を京都から播磨へ移し、自ら総指揮をとりました。ぜがひでも白旗城を落し、山陽道を手中におさめながら九州で勢力をもりかえしつつある足利尊氏を徐々に追い詰め京都進撃を断念させなければなりません。しかし、山城を形作る白旗城は近付きがたく白旗城攻撃は困難を極めました。そうこうしているうちに、九州平定を果たした足利尊氏がその総力をもって海路兵庫に向かって東上するという情報が入り、白旗城攻撃は中止されました。結果的に赤松円心のねばりが足利尊氏の大軍編成の時間稼ぎをした格好になったのでした。
湊川:
およそ10万の大軍を編成しての足利尊氏率いる水軍は、1336年5月25日兵庫の湊川の沖へと到着しました。上陸を阻止しようと待ち受けるは新田義貞の本隊と大館氏明、脇屋義助らでした。また陸路からは足利直義、少弐頼尚、斯波高経。それをむかえるは楠木正成とその弟、楠木正季らでした。
足利尊氏の上陸地点と予測されるのは大軍の上陸に都合の良い海岸線の広がる和田岬の西側でしたので、新田義貞は、大館氏明、脇屋義助とともに岬の西に陣を張りました。しかし海上の動きと陸上の動きはあまりに差がありました。海上での戦いに慣れた細川水軍の機敏な動きにつられ、脇屋義助軍は東へと移動させられ、手薄となった和田岬に足利軍はやすやすと大挙上陸したのです。軍を二分してしまった格好の新田軍はやむなく脇屋軍と合流すべく大館軍とともに細川水軍のむかった東方の生田方向へ全軍移動しました。
足利尊氏の戦法は、いつの戦の時でも、敵の弱い所にむかって全軍を突入させるという一点攻撃戦法でしたので、この時も新田義貞の本隊とはできるだけ衝突を防ぐ計画を立てていました。そして、楠木軍か脇屋軍を新田軍から孤立させ、そこを攻撃する戦法を計画し諸将にも徹底してありましたので、細川軍につられ移動した脇屋軍に新田本隊が後を追うように移動をはじめたのを見ると、そちらを攻撃するのはあきらめ、全軍を楠木正成と正季の陣のある会下山にむかわせました。足利直義に西から、足利尊氏に南から、細川水軍に東から攻められわずか残った北への退路も時を失って断たれ、楠木正成はこれまでと弟正季と刺し違えて果てました。
楠木正成43歳。後醍醐天皇にとっては貴重な忠臣を失ったのでした。その後、戦機を失った新田義貞が、やむなく有馬路を敗走したのはまだ日も暮れない午後6時ころのことでした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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尊氏足利尊氏