南北朝正閏論纂(6)

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《北朝正統説の歴史》

●江戸時代末期(寛政〜慶応)
 文化7年に朝廷は大日本史の進献を認めたけれども、北朝正統説を非認したわけではないと強調しています。  当時の公家は一般の南朝正統説の定着に反し北朝説を取るものが非常に多かったそうです。岩垣松苗の『国史略』を関白の三条公修が進呈を受けるという形式で公認したり、公家派の史家柳原紀光が『続史愚抄』で後村上天皇は偽主であり南北講和を南方主帰降と表現したのは北朝正統説の顕著なものです。
 越後の穂積保は『異年号考』で、大日本史は漢の国の史法を真似たものであり漢国史法で皇朝を推してはならないと説き今の天皇が北朝なのであるから北朝は正統であると素朴な回答をしています。
 このころ鵜飼敬所が頼山陽と正閏論争を行ったと記録にあるそうです。鵜飼敬所の主張が現在残されていないのが残念だと『南北朝正閏論纂』の著者にしては意欲的な事が書かれていました。
 当時の皇室の正式の数え方は後醍醐帝を95代とし、北朝の天皇の数を数えて孝明天皇を122代としており、世論の沸騰とは別に朝廷では公式にはどこまでも北朝を正統としていました。
●明治時代
 文学博士の吉田東伍は北朝正統説の代表で『東京日日新聞の談話』で南朝正統説は紙上の空論と断じています。また『太陽』誌上に寄稿して持論の北朝正統説を展開し、南朝正統論は史家の私説と述べています。とくに安政2年の孝明天皇の宸筆に『百二十二代孫』と天皇自ら北朝を正統と明言している。とその証拠を掲げ、著者もこの扱いに苦慮している事がうかがえます。著者は苦肉の対論として、長慶天皇の扱いや明治初期に公認された 弘文天皇の扱いや神功皇后、仲恭天皇の扱いなど孝明天皇が取捨選択した結果の数字であり、北朝を正統と断じている訳ではないとしています。
 法学博士の浮田和民も『太陽』にて史実は当時南北両朝対立し、ともに正統であると主張していたというのが事実であり、いずれが正統かは、史論の世界の話であると述べています。そして問題を事実問題、法理問題、道徳問題に分けています。事実問題では歴代の皇室が変わる事無く北朝正統を主張していたのは紛れもない事実であり、たとえば、室町末期の楠木正成に対する朝敵御免の沙汰は朝廷が北朝を正統とする立場であるからこそ出た発想と述べています。法理問題ではイギリスの共和政治当時を引用し、この期間チャールス二世が在位していたと後に定めたのは「法の擬制」であるとしています。これを南北朝に当てはめ、「法の擬制」で明治以降南朝を正統とする事は出来るとしていますが、ただ正統でなかった北朝が後に正統になったとするのは法理的に誤っている。としています。むずかしくて理解できないのですが、たぶん法理的に南朝正統を公認するなら法理的に現皇室を偽帝としなければならなくなると警告しているのでしょうね。そして道徳問題では、南朝を正統としなければ楠木正成を忠臣、足利尊氏を逆賊と言えなくなるから北朝正統説は国民道徳に害があるというのは誤りであるとしています。私なりに解釈させてもらうなら、元々この問題は純粋な正閏論ではなく、楠木正成の忠臣道徳教育に有害か否かという所から出発していると問題のすり替えを批判しているのだと思います。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 

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