南北朝正閏論纂(7)

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 正閏論争には、大きく三系統があります。ひとつは最も知られる南朝正統説。そしてそれと真っ向から対立する北朝正統説。そしてそのどちらにも属さないもうひとつが、これから紹介する両朝並立説です。この両朝並立説は、別名両朝対立説とも呼ばれています。表現としては全く相反しますが言っている事は同じです。もっとも、それらを厳密に分ける考え方もあるようですが。

《両朝並立説の歴史》

●南北朝時代〜江戸時代初期(慶長〜貞享)
 この時期に両朝並立という概念は全く存在しませんでした。現実として両朝が対立していた事を認めながら、それを客観的に表現する研究は皆無でした。
●江戸時代中期(元禄〜天明)
 並立説が始めて研究テーマとなったのは寛文年間ころになってからの事でしたが、両朝並立説という形で研究され始めたのは元禄年間以降の事でした。特に貞享元年の『本朝年代記』は、両朝並立説の立場を取って書かれてあり、過去の書物の多くが、北朝中心か南北両朝を併記してあると紹介し明確に両朝並立を朝廷も認めていた事を述べています。  太宰春台という史家の『倭漢帝王年表』では、南北両朝を全く同等に扱い両統と記してあるそうですが、その思想についての記録が無いので著者の意図は不明なのだそうです。
●江戸時代末期(寛政〜慶応)
 幕府の史官成島司直は、『南山史』で大日本史を批判して、北朝は長嫡であり、また聖祚無境であるので偽朝ではないと述べています。そして南朝は南朝、北朝は北朝であったのは事実でありこれが正史であると中国の南北朝の例を引用して両朝並立説を明確に説いているのだそうです。
 鹿持雅澄は『日本外史評』で、両朝ともに日神の尊胤(天子の子孫)であるのであるから、その軽重を測る事は誤りであるとしたうえで、神器が無ければ天子ではないとする説は革命により異朝が成立する他国の論理であると断じ、神器を根拠に南朝の正閏を述べるのは誤りである。また北畠親房の南朝正統を述べた書は南帝に対する礼儀であっただけの事としています。どちらかといえば北朝擁護説の様な物ですが、結論として、両朝並立説を述べており、この当時の代表的な両朝並立論者です。
●明治時代
 彦根の菅原正典は『皇統伝略』で北朝擁護の立場で両朝並立説を説いています。
 明治時代においても両朝正統とするのは矛盾しないとする説は各種あるようですが、全体に北朝擁護を前提としているようです。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 

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