【土偶の詩人 坪井正五郎 5】
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《鳥居龍蔵との出会い》
 イギリス留学を終え理科大教授になった坪井正五郎は開設された人類学講座を担当し、ほどなく人類学会会長に就任しました。当時東京大学理学部は理科大学と改称されておりましたが、当時考古学を含む人類学は生物学の一分野に定義され理学の分野に属していたのです。坪井正五郎は、この人類学講座でひとりの青年に出会います。鳥居龍蔵と名乗る青年は16歳の時より東京人類学会員となり、18歳で初めて坪井正五郎に出会いました。明治30年、東京市からの委託で芝丸山古墳群を調査する坪井正五郎に鳥居龍蔵が以前より気になっていた事を質問しました。
 「先生は他の人類学の先生方に比べ古墳の発掘はあまりやらないようですが、なにか理由がおありなのですか?」
 鳥居龍蔵の質問に苦笑しながら坪井正五郎は答えました。
 「実は九州でとある古墳を発掘したおりに、その古墳が宮内省の管轄でね、若かったもので情熱に燃えておったものだから真実を追求するのにはばかる事なかれなどと気負ってしまったのですよ。おかげで後にその筋に今後いかなる古墳の発掘もやりませんと書かされる羽目になったのですよ。」
 のちに彼の育てた鳥居龍蔵は考古学史に残る数々の業績を残す事になるのです。恩師にはその学説のコロボックル説否定論を展開しましたが、それは坪井正五郎を尊敬する多くの学者がそうであるように彼特有の恩返しの意味もありました。
《コロボックル論争》
 この間にも『人類学会報告』の紙上では白井光太郎とのコロボックル論争は続いていました。先住民族はコロボックルであると固守する坪井正五郎とアイヌであるとする白井光太郎との論争は、まるで大人げない意地の張り合いのようでもありました。
 坪井正五郎の主張するコロボックル遺跡は同系統のものが内地にもあり、国内に蔓延していたことになる。と白井光太郎が矛盾をつけば、その通りコロボックルは内地にも住んでいたと主張を返し、貝塚から発見される古代人の骨格は蝦夷そのものであり、これはアイヌを証明するものと主張すればコロボックルの骨格の特徴のアイヌとの類似性で反論するなど果てしない論争が続きました。ただし卓上の空論で終わらなかった所にコロボックル論争が考古学発展に果たした役割は非常に高いものが有りました。実証主義を基本とする彼らの論争は多くの遺跡発掘を体系的に研究し、次々と考古学史上の貴重な発見や学説が発表され続けたのです。
 やがて彼のコロボックル説には優秀な考古学者らが独自の反証を行い、坪井正五郎自身が一時期自信を失うという事もありましたが、ついに最後まで彼はコロボックル説に固守し続けたのでした。彼の説が結果的に考古学発展の基礎を築いた事を意識しての事でしょうか、その真相は未だに不明です。
《考古学》
 坪井正五郎はじめ有史以前の学問を研究する人々は、これを動物学の一分野として位置付けておりました。理学部動物学科からスタートした彼の学問は、やがて新設された人類学にて開花しましたが、発想はあくまでも理学系の学問でありました。しかし人類学者としての坪井正五郎は人類史をひとつの独立した学問分野と考え、これを動物学としてではなく文化系の学問、「考古学」とすべきという発想に到達したのでした。
 「考古学の真価」という発表で、考古学を実証主義の学問と定義し発表しました。次々と考古学としての見地に立った研究発表を続け考古学の普及啓蒙につとめ、ついに彼の提唱する考古学は独立した学問の地位をえることになるのでした。時代は国粋主義の風潮が蔓延していた時代で、日本民族の由来を学問とすることには難しい時代でありましたが、心意気は高いものがありました。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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