【土偶の詩人 坪井正五郎 3】
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《コロボックル北海道に住みしなるべし》
 明治19年(1886年)9月、足利公園古墳の発掘調査を終えた坪井正五郎には大学院での宿願の人類学研究が待っていました。忙しく研究に没頭する彼の周辺で、実はその後の坪井正五郎のライフワークともなる大事件が発生していたのでした。
 その年の2月、坪井正五郎が親友達と共に発足させた人類学会の記念すべき第一号の『東京人類学報告』にメンバーのひとりの渡瀬荘三郎が発表した「札幌近傍ピット其他古跡の事」という論文が、そもそものきっかけでした。この論文の中で渡瀬荘三郎は札幌近傍の竪穴や貝塚や土器石器などに触れて、これらの遺跡を残した人々は、アイヌ伝承にある「コロボックル」であると紹介していました。その論文そのものは、さほど考証したものとは言えず、むしろ人類学という未知な分野に対する渡瀬荘三郎なりの思い入れがロマンあふれる論文となって紹介されたもので人々を人類学の世界に引き付ける魅力に飛んだ素晴らしい論文でした。しかし、これに辛辣に反論した人物がおりました。同じメンバーで坪井正五郎の無二の親友の白井光太郎でした。
 「渡瀬君、人類学は我々が創設し育てていく義務を持つ大切な学問だ。決して文芸の世界の学問ではない。我々は後に続く研究者に対しても責任があるんじゃないかね。このような学説は一時の関心は持たれて、我々の活動は知られる事になるかもしれんが、長い目で見れば人類学には有害だと思う。」
 白井光太郎は、彼なりの人類学に対する思い入れがありました。熱い思い入れを持つふたりの男が一冊の『東京人類学報告』の本をはさんで激論を戦わせました。
 「しかし白井君、君も認めるように人類学は、いま生まれたんだ。すべては未知なる世界と言える。たしかに僕の論説は根拠に薄い事は認めるが、かといって否定もまた出来んだろう。今後新たな発見により証明できるやもしれん。肯定も否定も出来ぬものは、まず問うてみる必要がありはしないか。」
 ふたりの激論は終わりがありませんでした。やがて白井光太郎は、渡瀬荘三郎の論文のひとつひとつに対する緻密な反証を『東京人類学報告』に掲載しました。
 その要旨を述べると、
 ・北海道にある遺跡がアイヌ以外の人種の物であるなら同系の内地の遺跡もすべてそのコロボックルの物と言える。という事はコロボックルは北海道だけではなく内地にも蔓延していた事になり矛盾している。
 ・説を信じるならアイヌは比較的新しい時代に北海道へ渡った事になり古代史に現れる蝦夷などはすべてコロボックルであったと言わなければならなくなる。
 ・コロボックルが土器石器を使ったのならアイヌは全く別の生活をしていた事になり、アイヌの祖先は土器石器を全く持たなかったことになり、また穴居すらしなかった事になる。
という物でした。
 白井光太郎の反証は論理的で緻密であり、渡瀬荘三郎のロマン話より明らかに学術性に優れておりました。もはやこの段階で渡瀬荘三郎は何も反論する余地がありませんでした。むしろ彼は目的とする方向とは別の論点で自説が語られるのに嫌気がさして、その後白井光太郎と対決する事はしませんでした。
 しかし、コロボックルのロマンに魅せられた男は別にいました。坪井正五郎は人類学を生きた人間の民族学として捉えていました。彼にとってコロボックル伝説は、新しい学問の素地を築く上でまたとない実験材料に思えたのでした。この時点では坪井正五郎はコロボックル説を信奉していたわけではありませんでした。むしろ彼は白井光太郎がコロボックル否定を証明しえたと納得しているその反証に欠陥がある事を指摘したかったのでした。
 こうして明治20年(1887年)2月、『東京人類学報告』第十二号に運命の『コロボックル北海道に住みしなるべし』と題する論文が掲載されたのでした。
 彼はその論文の中で、白井光太郎に対し彼特有の緻密さでひとつひとつ反論しコロボックルは信ずるに足ると断言しました。
 以後、この二人の親友は、生涯最大のライバルとなるのでした。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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