【土偶の詩人 坪井正五郎 2】
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 《人類学会》
坪井正五郎は、白井光太郎らとともに弥生式土器を発見した年の10月、白井光太郎、佐藤勇太郎、福家梅太郎らの同志とともに「人類学会」を創立し、その第一回の集会を開きました。ところで坪井正五郎は大学では生物学を専攻しておりましたので、彼の人類学への傾倒はいわば畑違いにのめり込んだ事になり正課を怠り留年するほどでした。当時の坪井正五郎らは考古学を人類学に包括される物と考えておりましたので、狭義の考古学でなく民族学をも含む大きな学問の流れとして人類学会という言葉を使用したのでした。明治19年、坪井正五郎23歳の年に記念すべき人類学会報告第一号が刊行されました。人類学会はその後の日本の考古学発展に目覚ましい貢献をすることとなります。
《足利公園古墳》
 人類学会報告が刊行された年に坪井正五郎は、東京大学理学部動物学科を卒業し宿願の人類学研究に没頭するために大学院に進んだのでした。
 23歳の坪井青年の所に大学の総長の渡辺洪基から呼び出しがありました。
 「実はな坪井君、君の研究に大いに関係があると思うので声を掛けたんだが、君は栃木県の足利町という所を知っておるかね。」
 渡辺洪基の話は、たしかに坪井正五郎の興味をそそりました。その話によるとしばらく前に足利町の織物講習所の役員をしている峰岸政逸という人からご相談があるのでぜひ一度足利におこしくださいとの連絡があり、行ってみると講習所にはおびただしい量の古代の武器装飾品土器などが陳列されていたというのです。峰岸政逸によると、今年町の有志が足利町の西端に公園を建設しようと予定地を調べた所、古墳が一基発見されこの大量の埋蔵物が発見されたという事でした。そしてその足利公園予定地にはまだ同種の古墳が数多くあり学術的な価値を感じ東京大学に連絡したというのです。渡辺洪基は坪井正五郎に向かい、
「今年の夏に発掘調査をしてみようと思うが、君も来るかね。」
 と尋ねました。もちろん同行させていただきますと目を輝かせて坪井正五郎は答えました。
 夏休みの間、坪井正五郎は仲間と共に栃木県足利町に50日あまり逗留し発掘に没頭しました。渡辺洪基から実際の発掘調査の指揮を任された実質的な責任者の坪井正五郎は、彼特有の緻密な調査を続けたのでした。
 この足利町は繊維工業で伸びた町で古くより足利学校の町として学問の盛んな土地柄でした。前年に作られた織物講習所(後の足利工業高校)の役員だった峰岸政逸が古墳の学術的価値を直感したのも、またその発掘調査に町の有志が全面協力を惜しまなかったのもこの町の高い教養によるものでした。
 坪井正五郎はこの足利公園予定地に発見された数基の古墳群のうち保存状態の良い二基にしぼって特に緻密に発掘を行いました。当時、古墳の発掘は各地で行われており特別珍しい事ではありませんでしたが、そのすべてが古墳から発掘された遺物を机に並べて調べる物で、何が発見されたかが常に問題とされておりました。しかし坪井正五郎の発掘指導はこれまでの遺跡発掘の常識を大きく変える物でした。かれはむしろ古墳の状態、遺物の発見された状態に注意を払い観察するために発掘作業をする人達に細心の注意を払うよう指示したのです。そのためたった二基の古墳発掘のためにひと夏を過ごしてしまうほど時間がかかってしまったのでした。そこに遺物が発見されても、手に取る事を許さず、発見された状態を詳細にスケッチしてから、ひとつひとつ番号記号を付けて保管しました。発掘は遺物発見を主体とせず古墳の全景の調査から石室の詳細な調査など総合調査されました。
 発掘の合間を縫って坪井正五郎は、周辺の古墳も調査をおこない公園内に5基、隣の寺山に2基、少し離れた山川村(足利町の東端)に2基の古墳を確認しました。
 やがて坪井正五郎は栃木県足利町の足利公園古墳の発掘記録を詳細に解説した膨大な量の報告書『足利古墳発掘報告』を発表しました。発掘の手順から古墳の性質やその埋葬時期を学術的に考察する記録、石室の詳細、埋葬者の詳細な調査報告、副葬品のひとつひとつの詳細な調査とスケッチ、宝飾類の微細な寸法形状を調べ分類した報告、出土品の発見位置を正確に調査図示した報告、金銀鉄製品のすべての詳細な調査やスケッチ、土器片を丹念に復元したスケッチ類と分類調査、などなど、一時は作家を志ざそうかと考えた事もある筆で読みやすい平易な言葉を選び綴られていました。これほど緻密な学術発掘は我が国の考古学史上初めての快挙でした。そして坪井正五郎は報告書の結びに、つぎのような事を記したのです。
 『昔ローマ法王人體の解剖を厳禁せし事あり医術の進歩之が為に妨げられ下等動物の解剖も時人の忌む所となりて動物学の発達も甚遅々たりしといへり古墳発掘の如き道徳上宗教上より見る時は或は大逆大悪の評を受る事ある可しといえども之を為さざれば古今人體の異同開花の変遷を詳にする事能はざるを何せん』
 『足利古墳発掘の報告たるに止まらず今後学術上の目的を以って諸地方の古墳を探求するの端緒と為らん事を切望して止まざるなり』
 坪井正五郎の願い通り、この日本初の学術発掘報告書の報告形式ははるか後の現代においても全く変わることなく考古学の基本となっております。
 ちなみに、このわが国初の学術発掘が行われ、考古学の起点とも言える記念すべき『足利公園古墳』は、近年再発掘が行われ、調査の後に埋め戻し保存がなされましたが、地元では花見のシーズンに賑わい、踏み荒らされるほかは、訪れる人もなく、知る人も少ない古墳です。
この文章を書いたのは、だいぶ以前のことです。先日(2000年3月)ふたたび訪ねた足利公園古墳は、再発掘も完全に終了し、今ではとてもよく整備された素敵な史跡公園となっておりました。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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