【不屈の田中正造伝: 8 孤独な戦い】

前 戻る 次

 

田中正造の国会質問に政府は直接答弁する事を嫌った。どう考えても田中正造の正論に対抗できる答弁など不可能だったからである。政府は議会解散後に官報に掲載するという形で、田中正造の「答弁しないのは議会法違反」とする批判をかわそうとした。
その官報には、被害の存在を認めるが原因は不明である事。古河市兵衛は必要な予防策を講じている事が簡単に述べられていた。原因不明としながら、足尾鉱山では鉱毒流出の防止策を検討しているという、あきらかに足尾の鉱毒が原因である事を認めている矛盾した内容であった。
明治25年2月25日、第二回総選挙が行われた。政府に従順な多くの国会議員の中で、唯一危険な存在として知れ渡った田中正造への政府あげての露骨な選挙妨害は、し烈を極めた。警察や県が暴漢を雇い正造の選挙事務所の破壊、運動員への襲撃、有権者への脅迫を行ったのである。しかし政府の擁立した対立候補に辛勝して田中正造は再選された。
その年の5月、田中正造の足尾鉱毒攻撃が再開された。足尾銅山が被害の原因である事が、これほど学者の研究などでも明白になっているのに、足尾鉱山に対して何等の措置も取らないのはなぜかと迫る田中正造に、やはり政府は沈黙した。そして、前回と同様の方法で翌月になってから、農商務大臣の名で出された答弁書には、「鉱毒が被害の一原因になっている事は認める。」という多少進展したものではあったが、相変わらず、「鉱山を停止するほどの被害ではない」「損害に対して処分する権限は政府にはない」「鉱業人は目下被害をなくすための準備をしており将来の被害はない」と、足尾鉱山の経営者、古河市兵衛の利益を代弁するだけの物で、答弁と呼ぶにはほど遠い内容であった。
それとともに、政府は栃木県知事を動かして、被害農民にわずかな補償金と交換に示談書を書かせた。今後は鉱毒処理機械も導入されて被害は発生しない、という説明にその日の生活に困窮している被害農民が、おかみの仲裁で支払われる保証金に何の疑いももたずに涙を流して受け取った事は言うまでもない。仲裁委員に対して地元農民は感謝状さえ贈ったのであった。
田中正造は、その示談書の罠を見抜いていた。これは一時の見せ金で盛り上がっていた運動の芽を摘もうとする足尾鉱山の、政府と結託した姑息な手段である事を、被害農村を歩いて回り説いた。しかし、「田中正造を孤立させる」という政府の方策は、充分効果をあげていた。農民は田中正造の警告をうるさがり、国会でも政府は足尾鉱毒問題で取るべき手段を充分取ったと評価する空気がみなぎり、田中正造に同調する議員はいなくなった。そしてマスコミも関心を示さなくなり田中正造の運動は挫折した。
日清戦争により銅の需要が高まり、古河市兵衛は国家功労者として名誉金牌を授与された。政府と古河市兵衛の癒着は露骨なほどに強化されていった。たとえば外務大臣に就任した陸奥宗光の忠実な家臣である原敬は古河鉱業の副社長に就任したほどである。
明治27年夏に、渡良瀬川に小さな洪水が起こった。農民達は、その洪水が、まさか過去最大の鉱毒被害をもたらすとは思ってもいなかった。先の仲裁委員の話を信じた農民は、すでに足尾鉱山では必要な防止策が取られ、もう鉱毒の被害は無くなったと信じ切っていたからである。しかし、実際には鉱毒防止策は、ほとんど取られていなかった。相変わらず足尾の山は政府からタダ同然で払い下げられ、一本の木も残らぬほど伐採され、わすがに残った雑草さえも精錬所からの鉱毒で根こそぎ絶えてしまっていた。むき出しになった表土は、わずかな雨にも流され、これまでにない高濃度の鉱毒水として渡良瀬川を流れていった。
窮したのは足尾鉱山の経営者、古河市兵衛にしても同じ事であった。被害の想像以上の拡大は、世論の足尾鉱山への批判に直接結びつき経営危機にもつながりかねなかったからである。古河市兵衛は、最も安易で安上がりの解決方法を取った。被害農民に直接交渉して、前回の仲裁交渉の半額以下というわずかな補償金と引換に、未来永劫どんなに鉱毒被害が発生しても一切保証は求めないという示談書に署名させたのである。鉱毒防止策など、出来る訳ない事を、当の経営者が一番良く知っていたのである。
もちろん一度だまされた農民がそのような示談を歓迎するはずもなかったが、「もうじき足尾鉱脈は枯れる。そうなってからでは保証金は一切出ない。」という脅迫じみた交渉に屈して被害農民の半数近くが、これに応じた。
しかし、被害は拡大の一途をたどっていた。政府の無策が、ついに関東一円を巻き込む大災害へと発展してしまったのである。明治29年8月9日に発生した大洪水は、関東4県と東京の一部まで足尾の鉱毒を運んだ。農民達は、慌てて家財を質に入れ大量の肥料を購入し田畑に巻いたが、もちろん硫酸銅を大量に含んでしまった土には何の効果もなく、やたら破産農家を増やすだけであった。
人々は、初めて田中正造の警告の正しかった事を思い起こした。被害民の一部は結集して、新しい農商務大臣榎本武揚に陳情しようと試みたが、やはり一切無視され続けた。榎本武揚のような優柔不断で無能政治家の遍歴を持つ者が古河市兵衛に買収されるのは、いとも簡単な事だったのである。
孤立していた田中正造は、今度は総勢50名の議員の支持を受けてふたたび国会の場で足尾鉱毒問題を追求した。追求相手は、榎本武揚であった。しかし、この無能政治家は、先例に習って答弁を拒否し続けたあげくに議事日程が終了し、田中正造始め大半の議員が退席した後に、こっそりと答弁書を提出した。
榎本武揚の答弁書は、田中正造や被害住民の心情を逆なでする物であった。つまり、鉱毒被害は自然現象がもたらしたものである事、鉱業人は充分な示談金を支払っている事、鉱毒流失は減少している事など、単に古河市兵衛の利益代弁を行っているだけに過ぎなかった。
榎本武揚は、そう答弁しておきながら、一方では被害農民に同情しているかのような態度を取った。それは榎本武揚独特の八方美人的行動であった。被災地を回り、形だけの足尾銅山鉱毒調査委員会なる物を作った。しかし実際に榎本武揚は農民救済策を、何一つ行おうとしなかった。
4000人を越える農民達が組織だったものもないのに、5日ほどの握り飯を持って思い思いに集結し、榎本武揚に直接請願すべく東京へ向け行進を開始した。激しい警察の妨害をかいくぐり、いく名かの者が榎本武揚と面会した。その2日後、この優柔不断な政治家は、身内からも信用を失い失脚した。

 

 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
前 戻る 次