【不屈の田中正造伝: 7 足尾鉱毒の悲劇】

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明治22年、憲法が発布された。皇居への式典に栃木県会議長として出席した田中正造は感涙にむせんだ。この憲法を正しく人々が守る限り、自分が見てきた不平等からくる不幸な出来事はことごとく無くなると確信できたからである。
明治23年7月1日。日本初の国会議員選挙で田中正造は栃木県第三区衆議院議員に当選した。そしてその年の11月29日。記念すべき第一回帝国議会は開会された。正装に身をかため、緊張のおももちで出席する議員達のなかに、ひときわめだつ格好の男がいた。着古されたぼろの服でざんばらな髪を振り乱したこの男こそ栃木県民が末代までも誇りと仰ぐ田中正造であった。
田中正造が、あの北の国の牢の中で身につけた大きな声で、「議長!議長!」と発言を求める姿は、鬼気迫るものがあった。尊敬する天皇陛下が臣民を案じて作成したこの崇高な憲法を一身に変えて守ろうとする気迫は、他のどの議員より真剣なものであった。
田中正造は、水を得た魚の如く、その信ずるままに正義をおこなった。逓信大臣の汚職問題、保安条例への異義、大蔵大臣の資産公開要求、教育問題等々、田中正造の演説は語気強く熱弁が繰り返された。
そして、ついに運命の時が来た。
明治24年12月24日。その日開催された第二回帝国議会本会議の壇上にあがった田中正造の姿は相変わらずの木綿の着物とはかま、それに乱れた髪という代議士には必ずしもふさわしいとは思えない風体であった。それはネクタイとスーツ姿で整えた他の議員の中では際だって奇異な格好であった。
その日の田中正造の演説は、いつもの絶叫する演説とはまるで違う物静かな口調で始まった。
「諸君、まずは、これを見て貰いたい。」
そう言うと、田中正造は、手に持った袋から、何やら得体のしれぬ物を取り出し、壇上に並べた。根腐れの稲、育たぬ芋、鯉鮒の死骸等々。
「瑞穂の国の農民は、豊かな川の水から恩恵を受け幸せに暮らすが、唯一、群馬栃木の両県を流れる渡良瀬川の流域の農民にはそれが許されていない。上流に近年出来た足尾銅山の流す毒水の為に稲はすべて枯れ、芋は育たず、魚も住まぬ川となっている。被害民の救済と、今後の防止策を求める意見書を提出しても農商務大臣は未だ何等の返答も行っていない。」
淡々と語る田中正造の語気が徐々に荒げられ、最後は、いつもの全力で熱弁する熱血の田中正造の姿に戻っていた。田中正造は、激怒していた。こんな事が、新憲法の元にある日本国民の身の上に起こっていいはずはないと信じた。
渡良瀬川は栃木県の奥日光足尾地方をみなもととして、群馬県の東部を流れ、ふたたび栃木県の足利、佐野を通り栃木群馬茨城埼玉の四県が境を接するあたりで利根川と合流する大きな河川であった。
本来、この地方は赤土の痩せた土壌で、そのままでは農作物の栽培には適しない土地であった。しかし、二年に一度ほどある渡良瀬川の洪水を、農民達は上手に利用していた。渡良瀬川は、氾濫とはいっても必ず静かに増水し、自然に退いていくので少しも農地に被害を及ぼす事はなかった。そして、そのたびに上流から腐葉土が運ばれ、水の引いた後は一面に沃土が覆い、洪水の翌年は肥料を全く必要とせずに大豊作になる事が保証されており、むしろ農民は氾濫する渡良瀬川のおかげで恵まれた豊かな生活をおくっていた。
しかし、近年その恵みの洪水が一変してしまった。上流の足尾に出来た近代工法による足尾鉱山のために水源の森林の木はことごとく伐採され、農地を荒らす荒々しい洪水がおこるようになったのである。しかも、沃土を運ぶはずの洪水が去った後は、耕作物が全滅するようになった。上流の鉱山のせいである事は、すぐに判明した。精錬した後の排水や排斥物に大量の有毒な硫酸銅が溜まり、洪水で下流に大量に流れて来るのである。植物や川の生物、あるいはその川魚の死骸を食べた犬猫にまで被害は広がった。むろん人体に影響のある事もわかっており、栃木県では流域住民に渡良瀬川の魚を食べないように指導していた。
田中正造が、足尾鉱毒問題を国会で初めてとりあげた前年の夏、渡良瀬川の洪水で水に浸かった農地のあらゆる作物が壊滅的な被害を受けた。そして、その被害は年を越しても無くなる事はなかった。翌年は水をかぶったどの農家でも一粒の米も実らなかったのである。桑の木さえ枯れてしまった。養蚕の盛んなこの土地では桑の木が枯れては養蚕は続けられない。農民は必死で農地の再生を試みたが、すべて徒労に終わった。
農民達の必死に訴えを国では一切無視した。当然であった。時の農商務大臣の陸奥宗光の次男は、問題になっている足尾鉱山の持ち主、古河市兵衛の後継娘婿だったのである。つまり、事も有ろうに農民の利益を代表するはずの大臣が、実は古河一族の身内だったのだ。それにもまして銅は富国強兵策に欠かせぬ大切な外貨獲得源にもなっていた。
陸奥宗光がいかに古河市兵衛の側に立ち奔走したかは、農民達が調査を依頼した農商務省地質調査所が「依頼に応じる事が出来ない」と、内圧のために不本意にも拒絶しなければならないと匂わす返答をしてきた事からも知れる。
しかし、外圧に屈しない学者もいた。農科大学の古在由直助教授は土壌を詳細に分析し、調査した全ての標本から発見された危険量の銅化合物がすべての原因であると断言する調査報告書を提出してきたのである。
田中正造が対決したのも、その古河一派の農商務大臣陸奥宗光であった。田中正造は、憲法により、「日本臣民は其の所有権を侵さるることなし」と保証されている事を訴えた。そして、日本坑法により、鉱山採掘事業が公益に害がある時には農商務大臣が許可を取り消す権限がある事を説き、足尾鉱山の採掘を即時禁止せよと迫った。
田中正造の国会での論理的で正当なこれらの熱弁に陸奥宗光は全く答弁しようとしなかった。国会議員の質問に正当な理由無く答弁しないのは国会議院法に反していると田中正造が声を荒げても、ついに陸奥宗光からの答弁は一切得られなかったのであった。そして、その態度は以後農商務大臣が変わってからもなお何年間も続いた。

 

 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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