おもしろ南北朝

足利尊氏は足利に来たことは無い
足利は太平記の里ではない
神風が足利尊氏のために吹いたことがある
後醍醐天皇は何回も天皇を辞めた
天皇と呼ばれた天皇は少ない
稲村ヶ崎は徒歩で渡れた
稲村ヶ崎は奇襲作戦ではなかった
尊氏は六波羅を滅ぼさなかった
九州地方の『太平記の里』
10南北朝争乱の火付け役は後伏見上皇
11日本初の紙幣は後醍醐天皇が発行した
12騎馬武者像は足利尊氏ではない
13楠木正成と湊川神社
14楠木正成は非情なひとだった
15仮名手本忠臣蔵と南北朝の関係
16時代祭に室町時代

 

天皇と呼ばれた天皇は少ない

変なタイトルをつけてしまいましたが、天皇という位について、原点に戻ってよくよく見つめた場合、ほとんどの歴史家にとって、常識中の常識であるはずの事が、アマチュアの歴史ファンには意外と新鮮な話題であることに気づきます。

鎌倉幕府が崩壊し、次の室町時代がおとづれるまでのわずかな期間、武家に実権を奪われていた天皇が、実質的な最高権力者の座を奪い返した事がありました。建武中興とか建武新政などと呼ばれた、ほぼ2年ほどの出来事で、この間、たしかに後醍醐天皇が全ての権力を掌握し親政を実行しました。

さて、この何気なく使った「後醍醐天皇」の呼び名は、実は重大な意味を持っているのです。南朝が正統であることを主張した北畠親房の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」によれば、後醍醐天皇が天皇の位につくまでの長い期間天皇が天皇と呼ばれていなかったというのです。「神皇正統記」によると冷泉天皇以降から後醍醐天皇までの実に32代の天皇は、天皇という称号で呼ばれず「院」と呼ばれていました。つまり冷泉天皇の次は円融院、花山院と続くのです。
<注意:歴代を数えるとき、仲恭天皇も数に入れていますが、ご存じのように「神皇正統記」の時代には天皇としては数えられなかった天皇ですので正確には31代と言った方がいいかも知れませんね。>

わずかに壇ノ浦に消えた幼少の安徳天皇をはじめ、不幸な天皇の代表として、祟徳、顕徳(後鳥羽)、順徳の四徳天皇は天皇と呼ばれたようです。考えてみれば「天皇」も「院」も死後のおくりなに付けられる称号ですので、「元」天皇が死んだ場合、現役当時の実質的な最高地位である院政当時の称号「院」を使うのは、ごく自然のことなのでしょう。長いことパリーグにいた選手が、引退のほんの1、2年ジャイアンツに移籍すると、引退後に「元ジャイアンツの・・・」と呼ばれるあれです。現役の天皇が最高位だった四天皇は例外中の例外というわけです。

こうして冷泉天皇以降、死後のおくりなに天皇がつけられた天皇は、四天皇の例外を除き、ずっと現れず、現役の南朝の天皇のまま死んだ後醍醐天皇に至って初めて天皇の称号で呼ばれる天皇が現れたということになるのです。
ところで、その後も北朝の天皇に在位のまま亡くなる例はほとんどなく、天皇の称号でおくりなされる天皇は、光格天皇や明治天皇の出現まで延々と待たされる事になるのです。もっとも明治以降、歴代すべての天皇は「天皇」の称号で書きなおされていますので、いまはその名残もありませんが。

さて、便宜上「おくりな」と書きましたが、同じ「神皇正統記」には、宇多天皇以下、そのおくりなさえも廃止されてしまったとあります。そんな馬鹿な。われわれは宇多天皇以降も、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇、冷泉天皇、円融天皇と、すべての天皇におくりながあるのを知っています。ところが、調べてみますと宇多天皇の「宇多」とは、おくりなではなく、この天皇が住んでいた住所の事なのですね。以後、譲位後に住んだ建物の名前が、そのまま天皇の名前として今日まで残っているのであって、あれは、「おくりな」ではないのです。また醍醐天皇、村上天皇、東山天皇は山稜名です。円融天皇、花園天皇は、寺院の名前、北朝の光厳、光明も寺院名です。これらも「おくりな」と呼ぶ場合もありますが、一般には「追号」と呼ばれ、「諡号」とは区別されています。

後醍醐天皇は、それを嫌ったのでしょうね。生前に自分から「後醍醐」という名前を考えていて、死後、希望通り、後醍醐天皇というおくりながおくられました。実に光孝天皇以来36代目にして「おくりな」復活というわけです。

おくりなが崩御後におくられたのは持統天皇の「大倭根子天之広野日女尊」が最初というのが定説のようです。それ以前の天皇のおくりなは、すべて後代のものですから、「無かった」と言うべきでしょう。日本の歴史上、ほんとうに天皇と呼ばれた天皇は、とても少なかったことになりますね。

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稲村ヶ崎は徒歩で渡れた

太平記や梅松論などによると、新田義貞は鎌倉攻撃に際して、天然の要害になっている鎌倉を攻めあぐね、海神に祈ったら海の潮が引いて、稲村ヶ崎をまわって鎌倉突入に成功したとあります。

何度か足を運びましたが、現在の稲村ヶ崎は切り立った岩場がそのまま海中に深く潜り込んでいる様子で、とても引き潮であろうと徒歩で回り込めるような場所ではありません。ただ『太平記』では稲村ヶ崎を「沙頭路狭きに」と表現しています。「沙頭(しゃとう)」つまり砂浜の事です。「路狭きに」つまり、狭いとはいえ、満ち潮でも渡れる逆木を並べた道があり、その道の防衛には海上船団が当たっていたとあるのです。これは当時の稲村ヶ崎が遠浅だった事を意味しますので、現在の姿だけで判断することは危険ですね。

海神に祈る様は、作者が文中でもあかしているように神功皇后が新羅へ渡ったときの故事を、まったくの著作権乱用で、そのまま使ったようです。

稲村ヶ崎の描写は、鎌倉攻め全体から見たらそれほど詳しく書かれていませんが、鎌倉市中での市街戦の様子は、まのあたりに見たものでなければ表現できないのではないかと思われるほど執拗に詳しく、繰り返し描写され、滅びゆく者の哀れを延々と書き連ねてあります。その量を思えば、新田本隊が稲村ヶ崎を経由した 部分だけ創作する必要もなく、また創作するときほど力が入っているという「太平記」の特徴から考えて、新田本隊は本当に稲村ヶ崎を通って鎌倉に侵入したと判断しても別段問題がないように感じます。

海神に祈るまでもなく、引き潮満ち潮にも関係なく、主力軍の殺到で稲村ヶ崎の防衛戦は突破されたのだろうというのが私の考えです。

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稲村ヶ崎は奇襲作戦ではなかった

新田義貞の稲村ヶ崎のお話の続きです。
稲村ヶ崎を経由して鎌倉市中に殺到した新田義貞の話は太平記中の名場面のひとつとして有名ではありますが、太平記では、あたかも新田義貞の考えた奇襲作戦でもあるかのような表現ですが、実際には奇襲と言えたでしょうか。

それによると作戦は5月21日の夜に行われたとあります。なお『歴史群像シリーズ』(学研)の『戦乱南北朝』には、「天文学者の計算によると、元弘三年五月二十二日午前二時五十八分が稲村ヶ崎の干潮だった。」とありますが、短絡的に「なるほどね」と言えないところがあります。それは次の理由によります。

実際の鎌倉攻防戦は5月18日ころから始まっていますが『梅松論』によれば、このときすでに新田軍は稲村ヶ崎を突破して前浜の在家にあったとあります。つまり稲村ヶ崎は、さほど強固な防衛線では無かった事になります。実際には主力軍が稲村ヶ崎を越えたのが21日の夜半で、幕府滅亡が翌日ですから、たしかに大軍勢が通過したのは21日なのでしょうが、その先鋒はすでに鎌倉を包囲した初日の時点で稲村ヶ崎を確保していたということになり、海神に祈る新田義貞がそこにいたとするなら、「大将、なにを今頃大げさな」と言われてしまいそうです。

また『岡見正雄校注太平記(二)』によると、その他由良文書、塙文書、熊谷文書、天野文書、石川文書、大塚文書などには、それぞれ17日以降21日前までに稲村ヶ崎の内側で戦闘が行われていた様子が書かれているそうです。

そうなると戦端は稲村ヶ崎より先で開かれたことになり、稲村ヶ崎をいかにして突破するかなどという問題は元々存在せず、その作戦も奇襲とは言いがたいものだったことになります。

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尊氏は六波羅を滅ぼさなかった

建武中興の新しい政治をめざす後醍醐天皇と新たなる武家政権をめざす尊氏とが、いずれ袂を分かつのは時間の問題でしたが、実は足利新幕府構想は、後醍醐天皇の親政構想よりはるかに早くからスタートしていたのです。

六波羅が尊氏らの功績で陥落したのが元弘3年4月7日。入京たった1日で六波羅探題を攻略し終えた足利尊氏は、すでにその日より六波羅の新しい主となり、奉行所、つまりは臨時政府を設置し、尊氏の教書に呼応して地方より集まった兵の到着状を受け付け、また早くも訴訟の受け付けまで始めているのです。

それほどの早さで、昨日まで馬上で剣を振っていた足利軍に、国政担当の体制ができるとはとても思えませんが、その問題を足利尊氏は、たやすく解決しています。

足利軍は敵を徹底的に滅ぼしたわけではなく、実は六波羅には実務派の下級仕官がそっくり無傷のまま残っていたのです。そこにいた実務担当者にとっては、決済を求める相手が北条氏から足利氏に変わった程度の感覚でしかなく、昨日までとさほど変わらない実務を淡々とこなすことが可能だったと想像することは容易です。

元々北条一門に縁戚の多かった足利家による政変劇でしたので、気心の知れた役人が多く、実務を停滞させることなく引き継ぐことなどわけのないことでした。

後醍醐天皇が入京し、領土安堵の綸旨を初めて発したのが6月7日ですから、実に2ヶ月の間、実質上京都に足利尊氏の幕府があったという事になります。後醍醐新政の政務が軌道に乗った頃、役割を終えた臨時政府の奉行所は閉鎖になったようですが、依然として新政府の実務の外側にいた足利尊氏の元には、武士達が集まり、本格的な政権を設立すべしという機運が高まっていったことは、いまさら言うまでもありません。

南北朝の対立とは、官僚支配を嫌って直接政治を目指した後醍醐天皇と、旧勢力の官僚組織を、そっくりそのまま利用した足利尊氏という、官僚主義の対立という図式でもあります。

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九州地方の『太平記の里』

九州地方は、もうひとつの南北朝の里と言えるほど当時戦乱の続いた地方でした。その中から代表的な南北朝史跡をご紹介します。

有智山城址(福岡県太宰府市)

足利尊氏が九州で最も期待していた少弐貞経は嫡子の少弐頼尚が足利尊氏を出迎えに出陣したすきに挙兵した菊池武敏らの攻撃を受け有智山城にて戦死します。

宗像大社(福岡県玄海町)

筑前葦屋津に上陸した足利尊氏は宗像にて歓待を受けました。その中心で活躍したのは宗像大宮司でした。宗像大社の活躍なくして、九州経営の成功はありませんでした。

香椎宮(福岡市東区)

多々良浜決戦に挑む足利尊氏が戦勝祈願した神宮として知られています。宗像大社とともに、劣勢の足利軍に協力しました。足利尊氏は九州制圧のポイントを よく心得ていたという事でしょうか。

多々良浜古戦場(福岡市)

多々良川河口付近、現在の松崎橋の上流付近が古戦場です。足利尊氏は北部赤坂(現在の松崎付近)に本陣を置いて東部に陣を張る少弐大友島津連合とともに多々良浜北部で決戦に備えました。総数およそ千騎、相対する菊池武敏は須恵川多々良川にはさまれた付近に陣を張り多々良浜南部で足利軍の総攻撃に備えました。総数およそ一万騎、太平記の大げさを差し引いてもなおその差は十倍はありました。奇跡の逆転は松浦党の寝返りが直接の原因ですが、なぜか突撃する足利直義に神風の応援があったと太平記には述べられています。戦前の教育では、この逆賊に味方した天神の行為は黙殺されました。

太宰府天満宮(福岡県太宰府市)

足利尊氏と足利直義の二人三脚は、実に軽快に機能していました。箱崎で九州全土に号令する足利尊氏と、力を誇示するかのように太宰府を占拠する足利直義の双方の圧力で九州の勢力は、またたく間に足利側になびきました。

隈部(わいふ)城址(熊本県菊池市)

鎮西探題に突撃し九州での反北条先兵となり果てた菊池武時、菊池千本槍の菊池武重、多々良浜で敗れた菊池武敏、最近人気の懐良親王とともに戦った菊池武光ら、菊池の勇将を産んだ菊池の里は、現在菊池温泉で人気です。

大保原古戦場(福岡県小郡市)

菊池と少弐が最後の決戦を行った場所です。両軍は筑後川をはさんで菊池軍は高良山(久留米市)に陣取り、少弐軍は大保原に陣しました。戦いは少弐軍に突撃した菊池軍の完全勝利となり、以後中央での北朝勝利に反して、九州では今川了俊が登場するまで南朝の天下が続きました。なお、高良山には、菊池武光の墓があります。

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南北朝争乱の火付け役は後伏見上皇

後醍醐天皇は即位にあたり、皇太子に該当する護良親王を出家させています。これは天皇は大覚寺統持明院統の両統から交互に出すという伝統に従うという後醍醐天皇の意志表示でありましたが、実はこの時鎌倉から推挙されて皇太子になったのは、後の北朝の天皇になった量仁親王ではありませんでした。

あまり知られてはいませんが同じ大覚寺統の後二条天皇の皇子で邦良親王という親王が皇太子になっており、なんと持明院統も、それを容認したのです。これは幼帝が天皇となり上皇が君臨するというバランスが、年長の後醍醐天皇即位で崩れてしまったため、上皇制度にこだわる両院にとっては、別段異常な発想ではなかったのではないでしょうか。つまりこの時点ですでに両統から交互に天皇を出すという伝統は崩れていたわけで、よく言われているように、後醍醐天皇が強引に伝統を壊そうと画策したわけではないのです。

さて、ちょっと奇妙な話なのですが正中の変の直接的なきっかけとなった出来事は後伏見上皇が鎌倉に「邦良親王の」即位を願い出たという所からスタートします。邦良親王は大覚寺統ですから、その即位を持明院統の後伏見上皇が願い出るというのはおかしな話ですが、その意図は、「邦良親王の皇太子が動かぬものなら、いっそ邦良親王の即位を積極的に支援し、間髪いれずに量仁親王を、その皇太子として認めさせよう」という三段論法による皇位奪還を狙ったものだったのです。

問題が正中の変という思わぬ混乱に発展した事を知った後伏見上皇は、混乱に乗じて、今度は量仁親王の直接即位を狙いましたが、この時は、混乱が穏便に収まってしまった事でもくろみは外れてしまいました。

一方邦良親王のほうも、一度は後伏見上皇に担ぎ出されてその気になっていますので、今度は独自に皇位を狙い、まだ譲位の考えの無かった後醍醐天皇と不仲になります。ところが、その矢先、邦良親王は突如死亡します。なんだか、この死に方はタイミングが良すぎて怪しいにおいがします。

この後、鎌倉はようやく量仁親王を皇太子に立てました。不満はあったでしょうが後醍醐天皇も認めた皇太子です。従ってその後元弘の変で後醍醐天皇がたとえ偽器を使って譲位したにせよ、正当な相続者である持明院統、つまり後の北朝天皇の量仁親王に神器が移った時、当然世間でも、ごく自然にそれを受け入れました。

南北朝の戦乱の発端は、こうした皇位を狙う私闘からスタートしているというわけです。考えてみれば、その混乱の元を作ったのは後醍醐天皇ではなく、後伏見上皇といえるのではないでしょうか。

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日本初の紙幣は後醍醐天皇が発行した

『太平記』巻12の『大内裏造営事付聖廟御事』の中の最後のほうに、「我が朝には、いまだ用いざる紙銭を作り」と、内裏造営に対する批判の中で簡単に書かれている文章があります。この太平記の記述通りとするなら、日本で初めての国家による紙幣発行は、建武元年だった事になります。それも太平記の著者に言わせるなら、庶民からは悪政のひとつとして見られた事になり、後醍醐天皇特有の思いつき政治からくるもので、ほとんど流通しなかったであろう事は容易に想像がつきますね。

この条には、後醍醐帝が、いかに延喜の時代の政治を理想としたかが延々と綴られているのですが、もしかして、この紙幣発行も模倣したのでしょうか。とすれば、幻の紙幣が延喜年間にも発行されていたという事になります。

建武記には、当時、勅命で「乾坤通宝(けんこんつうほう)」を「銅楮並用(どうちょへいよう)」するよう命じられたとあります。この「楮」とは、訓読みで「こうぞ」ですので、こうぞで作った紙の事を意味します。「乾坤通宝」という銅貨と、こうぞで作った紙幣が大内裏造営で発行された事が、こうして複数の資料で明らかになっており、ほぼ事実だったと考えてもいいでしょう。

この時、実際に大内裏は完成しましたので、この紙幣は、在る程度の効果があったとも考えられますが、実際に流通した痕跡が今日見られないという事は、単なる兌換(だかん)紙幣として使われ、結局は朝廷に提出すれば流通している宋銭と等価交換が保障されていたという程度の物だったのかもしれません。

ところで「乾坤通宝」は、現在現物は発見されていないと思いますが、本当に鋳造されたのでしょうか。

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騎馬武者像は足利尊氏ではない

足利尊氏の像として良く知られている騎馬武者の絵があります。皆様も足利尊氏の姿というと、あの絵を連想するのではないでしょうか。

しかし以前からこの像は足利尊氏ではないのではないかと言われ続けておりまして、近年専門家による各種の学説が発表され、あの像は足利家の家臣、たとえば高師直であろうなどといった有力な学説が発表されて以来、足利尊氏像として扱われることはなくなって久しいのです。

元々あの絵は「伝足利尊氏像」と呼ばれていて、決して断定的に「足利尊氏像」と言われてはいなかったのですが、他に当時の物で足利尊氏像として伝わっている物が全くなかったため、足利尊氏像というと、あの絵を用いるのが一般的でした。日本史の教科書にも「伝」と注意書きはあるものの、やはり足利尊氏として紹介されておりました。

あの絵は、太平記に出てくる足利尊氏を連想させる絵です。もとどりを切って兜も無い鎧武者という点です。足利尊氏は、後醍醐天皇から護良親王殺害の罪で朝敵とされ、新田討伐軍が鎌倉に進発したのを聞いて、誤解を解こうと出家して恭順を示そうとし、みずからもとどりを切ります。しかし各地の防衛戦を突破した新田軍が箱根に迫ると、やむなく出陣するのですが、そのときの慌てて出陣する足利尊氏を描いた物として見ると、実に雰囲気が出ている絵です。

さて学説によると、あの絵が足利尊氏ではないとする最も確かな証拠は馬具にある「花輪違(はなわちがい)紋」の家紋なのだそうです。足利家が「輪違紋」を家紋として使うことはなく、家臣の高師直(こうのもろなお)が輪違紋であることから高師直ではないだろうかといった説があります。そのほかにも理由はいつくかあるそうですが、これひとつを取っても足利尊氏説には、たいへん不利な証拠ですね。

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楠木正成と湊川神社

戦国時代あたりの頃、太平記が、一般に愛読され、楠木正成がいくさの神として人気者になると、いつの時代にもいる流行悪のり人間が出没するものでして、我こそは楠木正成が子孫の楠木正虎と自称する者が現れ、時の正親町(おおぎまち)天皇に朝敵赦免の綸旨をもらいうけることに成功しました。それまで逆賊扱いだった正成が、一変して忠臣として世間から認知されることになってしまったものですから、江戸時代には、さらにその思想が一人歩きして、「戦神正成」=>「忠臣正成」=>「逆賊尊氏」=>「偽朝北朝」=>「南朝正統」という図式が完成していったのでした。

さて湊川の戦いで戦死した楠木正成ですが、なにせ後年太平記にあれほどかっこよく登場しないかぎり、ほとんど忘れさられた存在でしたから、墓地など当然どこにも存在していません。しかし、これほどの人気キャラクターを利用しない手はないと考えた人物がおりました。

広厳寺僧千厳は、荒廃した同寺復興を企て、楠木正成の位牌、墓、同寺で自害したとする古文書を偽造し世間に発表したのです。千厳のこのPR作戦は、大成功し、広厳寺は隆盛を極めたのでした。水戸光國さえも、これにあざむかれ、寺院内に「嗚呼忠臣楠子之墓」顕彰碑をたてたのですから千厳という人、よほどのシナリオライターだったのでしょう。これで、ますます楠木正成の忠臣は固定された思想となり、明治5年この地に楠木正成を祭神とする湊川神社が創建されたのでした。

参考:村田正志著「南朝と室町」(講談社)他

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楠木正成は非情なひとだった

はじめにお断りしておきますが、この「足利尊氏のホームページ」では、私は楠木正成を、一般的な伝説上の英雄としての評価をしておりません。しかし、南北朝を生きた人々は、それぞれに自分の信じるままに、もっともよかれと思う生き方をした人たちばかりで、楠木正成もまた例外ではありません。私はどちらかというと、為政者により歪められて評価されてきた英雄としての楠木正成ではなく、人間くさいひとりの男としてとらえ、好感を持って評価しているつもりです。悩み苦しみ裏切り野望を持つのが戦場の男ではないかと考えるからです。

さて、楠木正成は、鎌倉幕府が滅亡し、千早赤阪から幕府軍に従軍していた全国の武将達が蜘蛛の子を散らすように去っていったあと、戦死した敵の武将達を手厚く葬って供養塚を作り、それが現代にまで史跡として残っているという地元の伝説があるのを知りました。

では楠木正成を最も高く評価し、絶賛している「太平記」に書かれた楠木正成の戦後処理は、どうだったのでしょうか。なんと太平記が書かれたのは、戦後をはるかに過ぎた頃なのに「今に至るまで、金剛山の麓、東条谷のみちのあたりには、矢のあな、刀の傷のある白骨が、放置されたまま、苔にまとわれ、累々とある」と書かれているのです。
戦後しばらくの間は、平和な時間が過ぎておりましたので、楠木正成に慈悲の心が少しでもあったなら、領地の真ん中の道ばたに、敵軍とはいえ、死者が大量に放置されたまま腐り白骨化してもなお埋葬もされない状態にあるなど、耐えられないはずです。これは、明らかに敗軍に対する見せしめ効果を狙った意図的なものであると容易に想像できます。
楠木正成をことさら悪く評価している書物なら創作でこのくらいの事は書くかも知れませんが、これは楠木正成を絶賛している「太平記」での記述です。従って実際には、この描写をはるかに越えた醜態があったと見るべきではないでしょうか。
ややもすると英雄は慈悲の心を持っていないと許されないような感覚を持ってしまいがちなため、誤った地元伝説が創作されたりしますが、楠木正成を正しく評価しようとしたとき、織田信長に見られるようなニヒルな男の姿もあっていいのではないでしょうか。

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仮名手本忠臣蔵と南北朝の関係
仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)という江戸時代の歌舞伎の名作をご存じでしょうか。赤穂浪士が主君の仇を討つあの有名なお話を歌舞伎にしたものです。なぜ江戸時代のお話が、「おもしろ南北朝」なのかというお話をご紹介します。
「仮名手本忠臣蔵」のお話は、江戸元禄時代におこった実際のお話を題材にしておりますが、実在の人物を登場させることは、はばかれたため、それぞれの登場人物が南北朝の人物名に置き換えられて登場するのです。
たとえば悪役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)は足利尊氏の執事だった高師直(こうのもろなお、歌舞伎ではもろのおと呼ぶ)、切腹する主君浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、塩冶判官(えんやはんがん、本来はほうがんと呼ぶ)。この塩冶判官は塩冶高貞(えんやたかさだ)といい、後醍醐天皇が、隠岐島を脱出し、名和長年の庇護で、船上山にて各地に号令した際、駆けつけた地元豪族の一人です。
「仮名手本忠臣蔵」では、この塩冶判官の妻の湯浴みをのぞき見した高師直が横恋慕し、袖にされた腹いせに塩冶判官を侮辱し、斬りかかった塩冶判官が切腹を命じられ、やがて家臣の大星由良之助が主君の仇を討つという展開になるわけです。
このように登場人物が、仮の名前で登場するから「仮名手本」なのですね。
この塩冶高貞の妻の湯浴みを覗いて横恋慕し、塩冶高貞を死に追いやる高師直のお話は、実際に「太平記」に描かれています。「太平記」によると、そのときのラブレターは、吉田兼好が代筆したのだとか。この湯浴み事件はともかく、実際に高師直による塩冶高貞追い落としの政争は現実にあった事件のようです。
歌舞伎では塩冶高貞の妻の名を顔世御前(かおよごぜん)としておりますが、作者の創作で、本当の名前は不明です。

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時代祭に室町時代
ここ何年か、私は京都の時代祭に室町時代が無いことの奇異について、多くの場所でお話してきました。
最近その事をマスコミなどが大きく取り上げるようになったためか、それまでは主催者側に、にべもなく拒絶されていた室町時代列を、主催者自ら桓武天皇没後1200年大祭記念事業の一貫として取り入れることがきまったようです。
もともと足利尊氏を逆賊とする明治期の歴史歪曲により、足利尊氏が基礎を築いた室町時代を平安京の恥部と捉える思想があり、華やかな祭りへの参加をかたくなに拒絶し続け、現代にもその誤った認識が京都市民に根深く息づいていた証拠といえます。
しかし、この考えは、たとえ足利尊氏を逆賊として扱い続けたとしても、平安遷都を記念する時代祭の趣旨からすれば、あまりにもおかしな考えなのに、ほんの数年前まで、気づくひとがまれだったのですから、不思議というよりありません。
平安京とは、すなわち京都に天皇が遷都し、天皇を中心とする政治の主体が京都にあった時代です。明治天皇が東京に遷都することで平安京は終わるわけですが、その間、平安京は、幾度と無く、地方勢力におびやかされ、政治の中枢を他所に奪い去られようとしました。実質的に奪い、京都の権威を形骸化させてしまった、平安京からみたら、ゆゆしい人物も多数おりました。
まず源頼朝は鎌倉に政治の中枢を奪い去りました。平安京にとって屈辱の鎌倉時代です。織田信長は安土に奪い、豊臣秀吉は大坂に奪い、徳川家康は江戸に奪いました。それなのに、こうした人物達をモデルとした行列が、堂々と時代祭に行進しています。
それに比べ、足利尊氏は、鎌倉から主権を奪い、みごと京都室町に主権を取り戻し、平安京の膝元にて武士が政治を代理するという、本来の姿に戻した平安京復活の最大の功労者です。平安京を否定しようとした人物達のモデルが、堂々と平安遷都を記念する時代祭に行進しているのに、最大の功労者の足利尊氏のモデルがないというのは、あまりに奇異。というのが私の主張でした。
現在の時代祭は、室町時代に替えて、吉野朝時代というのを認めています。つまり室町時代初期には、平安京は途絶えていたとする思想です。平安遷都を記念する祭りに、平安京を否定する行列があるというのも不思議な話です。
しかしまあ市民のお祭りに、そのような偏った政治思想を持ち込もうと試みること自体が誤りですので、足利尊氏と楠木正成は、同じ時代を担った時代の代表者として、思想にかかわらず、ぜひ一緒に並んで歩いてもらいたいものです。
(注:2007年の時代祭より室町時代列が加わりました)

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