【風雲児新田義貞 9】

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尊氏謀反
尊氏挙兵:
北条高行を擁する諏訪軍を前にして、恐れをなして戦わずして敗走した足利尊氏の弟、足利直義は、京よりの援軍と合流すべく西へと移動しました。さて京では、足利尊氏が足利軍数千騎を引き連れ、後醍醐天皇の勅許をまたずに討伐隊として鎌倉へむけ出発しておりました。
主家の北条を遠征と見せかけ裏切った足利尊氏が、京の都を離れることで、今度は新しい主人である後醍醐天皇に反旗を翻す可能性は充分にあったことから、京の軍議では意識して足利尊氏を除外していました。とはいえ実力者の足利尊氏。強引に軍を編成し出発した途端、後醍醐天皇は、それを追認したのでした。
新田義貞は留まりました。足利尊氏を大将とする討伐軍に加わることで、ここまで曖昧にしてきた新田足利両家の主従関係が確立してしまうのを恐れたからでした。
ここに新田義貞と足利尊氏の宿命の対決が決したのでした。
足利尊氏率いる討伐軍は敗走する足利直義軍と合流し、途中同族の吉良氏細川氏らの援軍を得て、追走してきた旧北条一族を中心に構成する北条軍と1335年8月8日、大井川で激突するころには総数一万騎にも達しようかという勢いでした。
勢いのある足利軍はここで新北条軍を撃破し、鎌倉へと進撃します。新北条軍破れる。鎌倉でこれを聞いた諏訪頼重は主力の諏訪軍を援軍としてみずから出馬しました。箱根峠での両軍の戦いは二日間にわたりましたが、足利有利とみた地方豪族の離散により諏訪軍と援軍の会津軍のみ残した新北条軍はついに鎌倉へと敗走して北条時行は逃走、諏訪頼重以下はことごとく自害してはてました。1 335年8月19日。北条再興の夢は、たった25日間の鎌倉支配で消え去ったのでした。
謀反:
難なく鎌倉入りを果たした足利尊氏は、そのまま鎌倉の治安回復のために留まり恩賞事務を初めました。足利尊氏にとっては故郷へ錦を飾る凱旋でもありました。ひさしぶりの関東の地、気心の知れた人々、なにもかもが尊氏にとって安らぎの薬となります。この地を離れたくない。尊氏は強くそう思ったのでした。後醍醐天皇より授かった領地に領主が留まったところで何の遠慮もいらないはず。
家臣の多くも浮かれました。公然と尊氏を新しい鎌倉殿と呼びここに鎌倉幕府が再興されたと信じました。
うわさはまたたく間に後醍醐天皇の元へ届きました。尊氏謀反。最も恐れていた事が現実となり、後醍醐天皇はただちに足利尊氏討伐を計画しました。
新田義貞にとって、それは最大の好機でした。いま皇軍の将として朝敵討伐という大義名分のもとに各地の豪族に号令すれば足利尊氏は同族からも見放され孤立無縁になる。そうなれば必ず尊氏を倒すことができる。
ついに新田義貞は名実共に武家の頭領として戦乱の天下を平定すべく立ち上がったのでした。
朝議では新田義貞を大将軍とし京から、また陸奥の北畠顕家を陸奥鎮守府将軍として北から足利尊氏の鎌倉を挟み打ちにするという計画が決定されました。皇軍の証に新田軍には尊良親王が北畠軍には義良親王が奉じられることになっていました。足利尊氏には北条攻めの際、成良親王が奉じられて鎌倉へ来ていましたから、まさに後醍醐天皇の三皇子の不幸な戦いでもありました。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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尊氏足利尊氏