【風雲児新田義貞 8】

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川中島の合戦
北条再興の夢:
北条滅亡より3年後のこと。信濃の諏訪では新田義貞により陥落した鎌倉より、命からがら逃げだした北条高時の遺児で次男の亀寿丸が、地元の諏訪頼重の保護で元気に過ごしておりました。
諏訪頼重も北条一族でありましたので、親政の北条領地召し上げの政策で没落の危機にありました。これを打開するには。もう方法は一つです。幼少の亀寿丸を擁立して、北条家再興の旗揚げを自らの手でおこなうことです。7歳の亀寿丸は北条時行と名乗り、北条再興の期待を一身にうけて挙兵したのでした。
しかし同じ信濃にあってライバル関係にある小笠原貞宗は強敵です。まともに戦ったら緒戦敗退にもなりかねません。挙兵に呼応して集まる各地の豪族が到着するまでは小笠原と戦うわけには行きません。諏訪頼重は北信濃の保科弥三郎にそれまでの間、小笠原軍を釘付けにするよう頼みました。
川中島の合戦:
信濃国は八幡原にて、小笠原軍と保科軍の両軍は激突しました。激戦は数日間にわたり、くりかえされましたが勝敗は決しませんでした。千曲川の河畔に広がる大草原、八幡原。その地は、そののち川中島(現在の長野県長野市)と呼ばれ、歴史的な名勝負がおこなわれた所でした。
上野通過:
思惑通り小笠原氏が信濃に釘付けになっている間に小笠原氏以外の信濃の豪族は、ことごとく諏訪軍方に付いてしまい、北条時行を擁する諏訪軍はなんなく信濃をぬけ上野の地へと進入しました。勢いづく諏訪軍の前に奇妙な事がおこりました。上野の主だった豪族が何の抵抗もせずに、彼らを難なく通過させたのです。まるで中立を守るような態度でした。上野といえば新田義貞の本領です。京での新田義貞の微妙な立場は、そのまま上野の新田支族たちの立場でもありました。反北条ではあるけれど、現在鎌倉にいる足利家は、新田の上に君臨しようとしている。当面の敵は鎌倉にいる。そういう気持ちが、彼らに中立の立場を作らせたのでした。諏訪頼重の大軍は、3年前に新田義貞が挙兵し鎌倉を落とした進路と全く同じ道をたどり鎌倉へせまりました。
無血開城:
足利軍の渋川義季らが武蔵国女影原で迎え打つも、勢いづいた諏訪軍のまえにはひとたまりもありませんでした。なにしろ諏訪軍の錦の旗は戦さの神様の諏訪大明神です。その中には命知らずの信徒も多数まじっています。武士が戦場に赴くときに先勝祈願する神仏のなかに必ず入っている諏訪大明神。その自分の守り神が戦う相手とあっては士気も鈍ります。足利軍についた武士たちの中には戦わずして敗走する者も続出しました。足利尊氏の弟直義は、鎌倉で孤立し滅亡した北条の先例があることから、自ら出馬し、諏訪軍をむかえ討とうとしましたが、諏訪軍の勢いは誰の眼にも止められそうにないとうつりました。ついに足利直義は鎌倉を放棄し、西へと退いたのでした。
諏訪軍に守られ、北条高行は3年ぶりに鎌倉へ入城しました。のちに中先代(なかせんだい)の乱と呼ばれた戦いでした。(足利氏は鎌倉執権を先代、室町将軍を後代と位置づけし、そのあいだだから中先代としたのでした。つまり「中先代の乱」とは室町政権が確立された後に付けられた呼び名です。)
護良親王の最期:
ところで、鎌倉には中央での政争に破れた後醍醐天皇の子、護良親王がおりました。足利直義は鎌倉放棄のさい、親王が敵に渡るのを恐れました。かといって京へ向かって退こうとしている本隊に同行させるわけにも行きません。結局殺害する以外に方法がありませんでした。無念、護良親王。もし、倒幕後の親政が護良親王中心におこなわれていたとしたなら、あれほどもろく崩れさったでしょうか...。後醍醐天皇のトカゲのしっぽ切り性格は、ついに実子をも落しいれてしまったのでした。
鎌倉の町を散策すると鎌倉宮と呼ばれる観光地が見つかります。ここが護良親王が幽閉され非業の最期を遂げた場所と伝えられる所ですが、中を見学すると、もっともらしい岩屋があり、いかにも冷酷無比の足利直義が親王を虐待の上に殺害した事を印象づけようとする演出になっています。ところが、これを伝える唯一の記録である太平記には、岩屋に幽閉したなどという記録はまったく存在しておらず、鎌倉宮なる場所は戦前のヒステリックな皇国史観が作り出した架空の遺跡なのでした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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尊氏足利尊氏