南北朝正閏論纂(4)

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 『南北朝正閏論纂』では、天明以降の江戸中期では正閏論そのものが全く影をひそめてしまったとあります。本文には特にこれに関しての詳しい解説はありませんが、たぶん、皇室の存在感そのものが極端に影を潜めてしまった時期であり、皇室史への人々の興味が薄れていた時期だったと言えるのではないでしょうか。皇室の存在感がなければ北朝正統説も南朝正統説も無いわけで、著者が最も触れたくなかった時期とも言えると感じました。

《南朝正統説の歴史》

●江戸時代末期(寛政〜慶応)
 なんと水戸家より進献された『大日本史』を朝廷が正式に受け取ったのは69年後であったと出ていました。その間は、奉納された『大日本史』に対して北朝正統説を公式に使用していた朝廷は、コメントする事が出来ず、形式的には、これをそのへんに放り出しておいた事にしてあったのでしょうね。「南朝正統説が必ずしも現皇室を否定する物ではない」とする昨今の研究成果を元に軟化した朝廷が後追い公認したという事でしょうか。『進大日本史表』『大日本史跋』『天朝正学』などという物に反映されているという事です。
 幕府役人の大草公弼(おおぐさきみすけ)は『南山巡狩録』にて、尊氏は逆賊の名を避ける為に豊仁を天皇に立て、実際の政令は尊氏が行っており、尊氏は逆賊すなわち北朝は正統ではない。として南朝正統説を唱えているそうです。
 伴信友、平田篤胤(ひらたあつたね)はともに南朝正統の立場をとりつつ南北合一後の南朝に言及し、この後の吉野は正統ではないと言明しています。
 高松城主松平頼恕は『歴朝要紀』で後醍醐天皇から後奈良天皇までを記し北朝を掲載しながらも神器のある所が正統と書き暗に南朝正統を唱え幕府に嫌疑をかけられたとあります。幕府の微妙な立場が伝わる話ですねえ。
 そして頼山陽の登場となります。頼山陽は『大日本史』の南朝正統説の論拠である神器の所在を否定して、祖宗の意、天人の心の向背によると述べています。難しくてちょっと私の実力では解説不能なのですが、要するに正閏は表面的な神器の有無などという単純なものではないという事で、結論として南朝正統説を『日本政紀』『南朝正統論草稿』などで述べているそうです。
 このあたりから、だいぶ学問として深く研究されるようになったようで、速水行道が『皇統正閏考』で、天子は常にひとりであり正しい譲位によってのみ継がれるとして、南朝正統説を支持しています。
 佐藤一斉は、『言志後録』で、大陸の南北朝とは異質の物であり混同するべきではないと、やはり結論として南朝を正統としています。
 また津久井清影、武元立平、監谷宕陰、安積良斎、清宮秀堅などといった南朝正統論者が続々と現れ、幕末の様相を濃くしています。
●明治時代

 江戸末期から明治10年頃までは、世の中は南朝正統説一色になって、他の説は皆無になったとあります。つまりは、この時期、南朝正統説などという説は存在しなく誰疑う事の無い歴史的事実とされていたという事でしょうね。
 明治10年、元老院では『皇位継承編』を作成し、後醍醐天皇は偽神器を光厳天皇に渡したとする公式見解を発表しました。これにより、隠岐に流された当時の後醍醐天皇は、皇位を保持していたとされました。もちろんそれ以降後醍醐天皇がただの一度も神器を手放した事はないとしているのは当然の事です。
 この後宮廷史局による『大政紀要』などが出たほか、各界の南朝支持が続き現在(明治末期)にいたるのだそうです。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 

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