【南風 3】高一族
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内紛の兆し

1349年。楠木正行の四条畷の翌年...
さあ、南朝は、もう何の実力も発揮できないほどに、叩きのめされてしまいました。そうなると、北朝方の面々の、うるさい吉野に向いていた眼が、一斉に自分達の足元へ向けられます。尊氏のナンバーワンの地位は、誰が見ても文句のないところですが、ナンバーツーとなると、にわかに騒がしくなります。
人間偉くなりすぎると、やっかいなまつりごとは配下に任せるようになるものです。そうなると政治の実権はナンバーツーが握るようになり、実質的支配者とは、いつの時代でも、このナンバーツーのことを呼ぶようになるようです。
それでは、現在の足利幕府のナンバーツーはだれか。関東を掌握するのに功績のあった弟の足利直義か。彼は名代とはいえ、実際に最前線で常に足利軍の大将として戦ったその功績は、衆人の認めるところです。それとも尊氏の執事、高師直か。やはり執事の言動は、尊氏の言葉を代弁するとされますので、取り巻きの者どもは、常に気を使っております。現時点では、高師直が一歩リードして、足利直義がすこしばかり遅れている、といったところでしょうか。
むずかいし局面を乗り切った足利幕府では足利尊氏は雲上人となり、社長の座は弟直義に譲り会長就任となっています。これでは、社長秘書で権勢をふるっていた高師直も、ただの会長秘書。仕事は、会長の囲碁の相手程度になってしまいます。
おもしろくない高師直。執事がけむたくなってきた足利直義。さあ内紛です。
最初の衝突
最初の火付け役は足利直義でした。周到な準備のもと、高師直の暗殺計画を実行しようとしたのです。しかし、腹心粟飯原清胤の心変わりで、未遂におわりました。これを知っておさまらないのは高師直。こうなったら足利幕府もなにもありません。足利一族を二分しての戦いが開始されました。
結局形勢不利の足利直義が、「えーと、これは執事の上杉重能と畠山直宗が、勝手にやったことでして、わたくしの関知してないことでして..」と、どこかの時代の政治家のような発言で、二人を処分することでまるく納めてしまい事無きをえたのでありました。

足利直冬

さて、中国は、長門探題足利直冬という人物がおりました。足利直冬は、なんと足利尊氏の実子でありながら足利直義の養子という、微妙な立場の人物でした。そうです。見方によっては高師直にとっては、足利直義の地位を象徴するような最も目障りな人物となります。「こんなの殺しちまえ。」かなり単純発想ではありましたが、高師直の足利直義刺激策の一環として、足利直冬は、いきなり攻撃をうけたのです。
あわてて九州に逃れた足利直冬は、父尊氏の例にならい、九州一帯の諸将を募り、なんとアッという間に大勢力の将軍となってしまったのでした。高師直の大誤算でした。まさか、九州の諸将がいとも簡単に足利直冬に加わるとは思ってもみない事だったのです。足利幕府の勢力圏なんて、そんなものだったことに、気づいていなかったのでしょうね。
こうなったら、父子対決よりない。高師直は、足利尊氏を擁して、足利直冬討伐に、出かけなければならなくなってしまいました。事を急がなければ、湊川の戦いの敗戦を逆の立場で演じなければならなくなります。

直義の南朝帰順

やっと、ここで南朝登場です。
高師直、高師泰らの陰謀におびえ、京を脱出した足利直義は、河内は石川城の畠山国清をたより、高師直、高師泰討伐隊の編成を始めました。南朝の旧勢力も利用しない手はありません。南朝帰順というショック療法を使って、近隣の諸将を集め、一気に京都を占領してしまいました。
足利尊氏を擁する高軍は、一旦は京を回復しましたが、勢いの止まらない足利直義に押され摂津の打出ノ浜で、ついに決定的敗北をしたのでした。
1351年2月26日。さしもの権勢をふるった高兄弟は、武庫川のほとりで、上杉憲能によりあっけなく殺害されたのでした。
いくさが終わってみれば何の事、足利尊氏は、いつの間にやら、将軍の座にもどり何事も無かったかのように政務を勤め、足利直義も、「南朝帰順?なにそれ」とばかりの態度で、南北朝の和議も、そこそこにしてしまいました。戦争とは、いつの世も、こんなものなのですね。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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