【南風 2】四条畷
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「四条畷。」と言っただけで、戦前の教育をされてきた方には、「吉野を出でて、うち
向う...」という詩が浮かぶことでしょう。ところで、わたしの文は、歴史の表面を流しているだけなので、読者の皆様の肉付けだし取りをよろしくお願いします。

楠木正行(くすのきまさつら)

さて、湊川の合戦のおり、桜井の駅で父楠木正成と無念の別れをした当時、11歳だった楠木正行は、今は成人し、22歳の若武者となって、南朝の重臣の一人となっておりました。
時に1347年8月10日。しばらくなりを潜めていた南朝が、久しぶりの攻勢をかけて来ました。若武者楠木正行が、紀伊の国の有力武士団隅田一族と戦い、隅田城を落とし、その名を天下に示したのです。
これは、明かな足利幕府に対する挑戦状でした。幕府も、受けてたつ必要があります。幕府は、ただちに細川顕氏を大将とする3000騎の大軍を編成すると、8月14日、討伐隊として都を出発しました。むかえる楠木軍は700騎。形勢不利とみた楠木正行は、父ゆずりの機敏な戦法で敵を撹乱すべく、落とした城を捨て、逆に敵軍にむかって急襲をしました。
油断のあった足利軍の惨敗でした。つづく、11月26日。山名時氏の加勢をうけた細川顕氏軍の再討伐をも阿倍野近辺で撃破した楠木軍は、敗残の敵兵をも看護するほどの余裕をみせるほどの勝利で足利幕府を狼狽させました。

四条畷

12月。楠木正行の術中にはまった格好で、幕府軍の総攻撃が開始されました。足利尊氏の弟、足利直義、執事の高師直、弟の高師冬を中心として、足利一族総動員しての討伐隊大編成でした。
翌正月。ついに河内の国は飯盛山のふもと、四条畷での両軍の激突が開始されました。正面から激突したのは、足利方の高師直の本隊でした。朝霧を利用しての楠木軍の翻弄作戦が成功し、高師直軍はじりじりと後退を始め、本陣が危険なほどに楠木軍に追いつめられてしまいました。
高師直を成敗した。楠木正行の最も期待する一報が届きました。しかし、首実検の結果、それは、高師直の影武者とわかり、楠木軍の一喜一憂が続きます。焦りはじめた楠木軍に、やがて、住吉方向から反転してきた高師冬軍が後方から攻撃を開始してきました。雨の降るごとく射かけられる矢の中で、ついに、楠木正行は、弟正時と刺しちがえて、はてたのでした。正行23歳。南朝最後の忠臣でした。

吉野陥落

さて、足利軍は、この好機を利用し、南朝を一掃する作戦を決行しました。1348年1月24日。足利軍は、総力で、吉野に迫りました。時の南朝後村上天皇は、やむなく、険しい山間を、より奥深い穴生(あのう:後に賀名生)まで落ち延びたのでした。
足利軍の徹底した掃討作戦で、吉野の南朝関連の施設はすべて灰となりました。それは、南朝の完全敗北を象徴する出来事でした。

北畠親房死す

さて、今回の事件を含め、南朝の争乱事件には、常に黒幕として君臨していたひとりの男がおりました。ことあるごとに名前の出て来る古狸のような男、北畠親房です。『神皇正統記』で有名なこの男、公家であり、村上源氏の末裔であり、護良親王の母を叔母にもち、その娘は、後村上皇后となり、その息子は北畠顕家として、後醍醐の元でおおいに活躍したという、どこからどこまでも反足利人間でした。
不屈の男、北畠親房は、やがて、賀名生の地にて病没するのでした。63歳。信念に生き天寿を全うした、考えようでは、南北朝動乱を幸福に生きた男でした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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