【鎌倉滅亡悲話(10)塩飽聖遠の場合】
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鎌倉の軍はことごとく破れ、いまや北条高時以下大半の将たちが自害して果てた頃、家臣の末席で出陣していた塩飽聖遠(しあくしょうえん)は、心安く果てる場所を求めて屋敷に戻った。屋敷では、嫡子の塩飽三郎左衛門忠頼を始め一族郎党がみないくさ姿のまま死出の身支度を整えていた。
「者ども、もういくさは決した。すでに高時殿始め、大半の方々は腹を切り果てた。ここで忠義を貫いて果てた所で、だれが誉めてくれるでもないと覚悟いたせよ。」
塩飽聖遠は、一同に向かって静かにそう言うと、塩飽忠頼を手元に呼び、
「のう忠頼、そなたは元服したとはいえ、いまだにご奉公にも上がらぬ身であった。鎌倉殿に忠義を尽くさねば成らぬ事は何もない。いまここで腹を切った所で誰のための忠義でもない。今すぐに髪をおろして仏門に入り、その生涯にわたりこの父の菩提を弔ってはくれまいか。」
と諭すように言った。父の心を知ってか知らずか、塩飽忠頼はそれを拒否した。
「父上、何を申されます。忠頼は、承伏できませぬ。この忠頼、たとえご奉公に上がらぬ身とは申せ、一族の繁栄あってこそのわが身でありました。一族の恩義は我が恩義、鎌倉様には当然に、恩義がごさいます。しかるに、何で延命のための出家などという武士の恥となるような事が出来ましょうか。」
塩飽忠頼は、父の冥土のともがしたいと、頭を垂れて頼んだが、塩飽聖遠は聞き入れようとしなかった。しかし塩飽忠頼は、すでに心を決していた。父のとがめを気にしてか、直刀を袖の下から密かに脇腹に突き立て、満身の力をこめて刺し果てた。塩飽聖遠は聞言葉もなくわが子の最後を見つめた。
「兄上、お供つかまつる。」
塩飽忠頼の弟の塩飽四郎は、まだ元服したての子供であった。
「四郎、何を申すか。そなたが腹を切るのはゆるさん。鎌倉への御恩と申すならば、父への孝行を優先せよ。武士のたしなみの最初は、親への孝行と教えたはずじゃ、忘れたのか。親をおいて先に旅立つ子ほど親不孝な事はない。」
塩飽聖遠は声を荒げた。武士である前に子の親でありたい。塩飽聖遠は、こころからそう思っていた。自分の家を守ってこそ武士、主君へのご奉公などその次の事と感じていた。
「武士の意地など愚かな事である。この塩飽聖遠ひとりの命で、ご奉公は足れりと思え。四郎、最後の孝行である。父の介錯をいたせ。」
そういうと、いま果てた嫡男塩飽忠頼の腹に突き刺さった刀を抜いて、その刀を自分の腹に突き刺した。父上と叫びながら塩飽四郎は、父の希望通りに刀を振りおろしてその首をはねた。
「父上、もはや親を先に冥土に送った息子なれば、孝行は果たしてございます。あとは若輩なれど武士のはしくれの意地をお認めくだされ。」
塩飽四郎は、果てた父塩飽聖遠のなきがらに向かって語りかけると、わずか三名ばかりの家臣と供に父に続いて果てた。こうして塩飽聖遠の心はついに二人の息子に届く事は無かったのであった。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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