氏家氏と喜連川氏

歴史の大きな転換点は、意外にあっさりと、人知れぬところにあることがあります。

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疲弊した鎌倉幕府が滅びて、新興勢力の足利幕府が成立したことは、結果論から見ると、まるで歴史の必然性のようにも見えますが、動乱の南北朝の歴史を知れば知るほど、それはちいさな偶然の積み重ねの結果でもあったと思うようになります。
あのとき、ほんの少しだけ風が反対方向に吹いていたなら、ほんの少しだけ敵の軍勢が多かったなら、足利尊氏はあっさりと死んでいたはず、という事も何度かありました。
北陸の小さな村でも、そんな歴史が大きく塗りかわってしまう出来事が、あまり多くの人に知られることなくおきていました。鎌倉幕府を倒した新田義貞が、すこしの油断から、灯明寺の畷で、わずかな敵に偶然遭遇して戦死してしまったのです。
足利尊氏の優勢は誰の目にも明らかになっていた頃ではありましたが、それでも新田義貞が戦死した報を受けるまでは、征夷大将軍を名乗ることに躊躇していたほどでしたから、北国で生きている新田義貞の存在は、足利尊氏にとっては、とても大きな脅威だったのでしょう。
その新田義貞を討った足利軍の中にいたのが氏家光範。南北朝の戦記物「太平記」に何度となく登場する氏家氏の名前は、栃木県氏家町の町名が、いかに歴史的に由緒のある名前であるかをうかがい知ることができるエピソードです。

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時代は大きく変わって、戦国時代の頃、すでに足利氏最後の将軍も、それを擁立した織田信長により追放され、長かった室町時代は幕を引きました。やがて信長に替わって登場した豊臣秀吉は、鎌倉公方の末裔を足利氏として公認し喜連川氏を名乗らせました。この喜連川氏は江戸時代を通して名門の家柄を認められる高家として続いたという、栃木県喜連川町は、とても格式の高い町の名前です。

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ともに足利尊氏と関連するこのふたつの町は、近く合併し、その由緒ある両町名は消えるとの事です。残念なことではありますが、両町の町民が古い伝統の誇りを捨てて、新しい歴史を築く先駆者となる決意の現れとして、これもまた両町にとっては、希望あふれる新しい歴史の転換点のひとつになるのでしょうね。

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ところで、この両町の合併後の新市名は「さくら市」と決まったそうです。桜の名所があるからというのが理由のようですが、歴史ファンには、「桜の名所のサクラ市」と言うと、間違いなく千葉県佐倉市が思い浮かびます。佐倉市には国立歴史民俗博物館があり、その敷地は広大な佐倉城址公園として、近隣ではとても有名な桜の名所だからです。
今年(2004年4月)も、私の歴史愛好家の仲間達が、年に一回の花見オフを、ここ佐倉市の城址公園で開催することになっています。国立歴史民俗博物館を見学しながら、壮大な日本史に思いをはせるのは最高に気分の良いものです。「さくら市」になったら、ぜひ佐倉市のようなにぎわいのある、桜と歴史の名所と言われる町になるといいですね。
記:2004/4/2
 

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