「本当の栃木県の歴史」は、私が独自の自由な発想の元に楽しくお話するものです。学問的なお話は、その道の専門の方にお任せすることにして、閑話としてお楽しみください。そして、ぜひみなさまのご感想もお寄せください。
 

平家落人の里はなかった?

 
昨今の秘湯ブームではこういう神秘的な香りのする温泉地が人気を得ているようです。
「平家の落人(おちゅうど)の里」というのは、一般には源氏と平氏の戦いに敗れた平氏が、厳しい追っ手を逃れて険しい山間部に隠れ住み、平氏が盛んだった頃の都の文化を密かに守り次いで現代に至った地と言われている郷の事です。「平家落人の里」は全国各地にあり、そのいずれもが、深い森の中に不思議な文化の香りのする神秘の町として、人気の高い観光温泉地になっています。

栃木県北部にも、この「平家落人の里」を売り文句にした温泉地があります。では、本当にこのあたりに平家の公家やその郎党が隠れ住んでいたのでしょうか。その答えは、残念ながら限りなく「ノー」と言わざるを得ません。もちろん「その証拠が無いから」という学術的な理由もありますが、わたしはその道の学者ではありませんので、次の通り、「可能性」の問題として考えた場合で、ほとんどありえないお話ではないかと疑問を投げかけておきます。

一般に源平合戦と言われているため、源氏の血筋の郎党と、平氏の血筋の郎党が 、二手に分かれて戦った戦争と誤解される方が多いのですが、確かにトップにいたのは、源氏と平氏でしたが、その下で戦争をしていたのは、源氏も平氏もなく、お互いに入り交じっての戦いでした。

分かれて戦ったのは、長い歴史の中でこの国の権力を握っていた関西の勢力と、長い開拓の時代を乗り越えてたくましく育った関東の勢力の、ふたつの勢力だったのです。乱暴にたとえるなら、植民地「関東」の独立戦争のようなものです。この戦いに勝利したのは源頼朝を頂点とした関東の勢力で、平安朝の頂点にいた平氏は敗れ去りました。

その平家の一部が、死罪を免れ流刑地に独自の文化を創っていった例はありますが、それが今に伝わる「平家落人の里」であって、隠れ住んだ里というのとは、ちょっと違うような気がします。むろん平氏側で戦った武士の中には厳しい残党狩りを避けて山深い奥地に移り住んだ例もあったことでしょう。でも「源平合戦」とは、本当は「関東と関西の戦い」なのですから、破れた側の残党が、わざわざ敵の本拠地である関東に逃れ、下野の国の山間部に移り住むなど、とても考えられないことなのです。

栃木県内にある「平家落人の里」伝説によると「平藤房」が隠れ住んだとか。でも納得する前に、まず平藤房なる人物が平氏の中にいたのかどうかを調べてみましょうか。たぶん伝説になるほどですから、なにがしらのひとかどの人物で、学者の資料にはそのような人物の記録も残っているのでしょうが、残念ながらごくふつうに入手できるおおざっぱな系図資料の平清盛の一門の中に、そのような人物を発見することはできません。伝説の里とはいえ、「平家落人の里」を観光の目玉とするなら、せめて「平藤房」についての伝記ではない学術的な記録の紹介くらいはぜひほしいものです。
記:2003/2/28

 
栃木県内で「平家落人の里」と銘打って観光地宣伝している温泉地があることに対し、ここで私が「平家落人の里はなかった?」と、平藤房なる人物についての疑問を紹介したことがきっかけとなったわけでは無いとは思うのですが、最近それらの温泉地(栃木県北部にある湯西川温泉郷・川俣温泉郷)関連の、各種観光PRをホームページ上で探しても「平藤房」という人物記述は、ほとんど見かけなくなりました。

そのかわり、あれは実は平藤房ではなく、「藤原藤房」だったという記述が登場してきましたので、ご紹介したいと存じます。たとえば、次はNTT番号情報株式会社の「iタウンページ」の「川俣温泉」の紹介記事からの引用です。
『川俣温泉の歴史は、平家の家臣、藤原藤房の末裔藤四郎が発見したものとも伝えられており、平家落人伝承との関連性が見られる。(以下略)』

藤原藤房という人物は、南北朝時代の南朝方の人物として知られる万里小路藤房を指すのが一般的かと思います。万里小路藤房が川俣郷に隠れ住んだという伝説であるのなら、彼は南朝の再興を夢見て北関東で活躍した経歴を持っておりますので、戦前の皇国史観の教育を受けた南朝びいきの人たちにより、そのような伝説が創作されたとしても、少しもおかしな事ではありませんので、平藤房は誤りで、藤原藤房が本当だったのでしょうね。

しかし万里小路藤房は南北朝時代の人物です。源氏と平氏が戦った時代から、140年も後の、すでに源平の合戦など遙か昔の過去の出来事になっていた時代で、戦っていた平家 は影も形もなくなっていた時代を生きていた人物です。
まして公家の万里小路藤房が平家の家臣であろうはずもありませんので、藤原藤房ゆかりの温泉を主張するのであれば、「平家落人の里」伝説をみずから明快に否定したとことになってしまいます。
もちろん万里小路藤房が川俣郷に隠れ住んだなどという記録そのものも、私の知る南北朝伝記のどこにも存在しておりませんので、川俣温泉郷は、南北朝の里でもありません。

川俣温泉郷の伝説は、戦前の皇国史観による南北朝遺臣伝説創作話と、戦後の秘湯ブームによる平家落人の里伝説創作話が、ごちゃまぜになってしまったお話という事ではないでしょうか。 歴史に矛盾し、事実とは異なるという事を、教育的な視点から、子供達の前で明快に説明できて、初めて成立する楽しいお話ではないかと思います。

ぜひ湯西川温泉郷・川俣温泉郷の「平家落人の里」として観光PRしているパンフレットの最後には、「歴史的事実とは異なります」と明記する勇気をもっていただきたいと思います。
記2005/5/16(2008/5加筆)
湯西川に古くからある旅館が、根拠も示さずに平家の末裔を自認して、正史に記録の無い歴史を、正しい歴史でもあるかのように紹介しているのを見かけました。

それによると、ここに移り住んだ平家の落人は、「平重盛の六男・平忠実(平忠房)」なのだとか。

そもそも忠実なのか忠房なのかも示さない、いいかげんさがありますが、確かに尊卑分脈には平重盛の子に平忠房という記述がありますから、平忠房でいいとして、尊卑分脈では、その代で途絶えていますので、落人になったという根拠が不明です。その危うさは、すでに上記で触れましたので、次に読み進めます。

すると、その人物は、宇都宮朝綱を頼ってこの地に来たのだとか。

では源氏の宇都宮朝綱の記録に「平忠実(平忠房)」をかくまった記録が残っているのかを調べたところ、都落ちの平貞能の身元を預かった記録ならあります(吾妻鏡)。でもこの場合は、かくまったのではなく、堂々と頼朝に申告して身元引受人になったのですから、湯西川の山奥に隠す必要はありません。宇都宮の領地のど真ん中に、賓客として堂々と普通の生活をすることが許されていたのですからね。つまり平氏が頼ってきたなら宇都宮朝綱は、ちゃんと身元引き受けを申し出ても許された実績を持っているのですから、「平忠実(平忠房)」の場合に限って頼朝から隠すなどという我が身を危うくするような行動をする必要性など、全く無かったわけで、それだけでも充分矛盾した話になります。

まあたぶん平貞能の話も落人伝説に取り込んで歴史に箔を付けようと試みたというところなのでしょう。

ちなみに宇都宮朝綱自身も横領罪で配流になって失脚し、その後は一線から退いていますので、とても他人様をかくまっている余裕なんてなかったはずです。

記2013/6/11

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