「本当の栃木県の歴史」は、私が独自の自由な発想の元に楽しくお話するものです。学問的なお話は、その道の専門の方にお任せすることにして、閑話としてお楽しみください。そして、ぜひみなさまのご感想もお寄せください。
 

白地沼は修羅地沼?

 
栃木市に「合戦場」という名の変わった駅があります。戦国時代に、皆川宗成と宇都宮忠綱が、この駅の西にある白地沼周辺の標茅ケ原(しめじがはら)で戦ったことからその名がついたのだとか。
栃木県が県史として編纂した歴史書を読むと、この白地沼の「白地(しらじ)」とは、戦場で散った兵士の死骸が沢山沼に浮いて、修羅場になったような光景だったから付けられた名前で、元々は「修羅地(しゅらち)」沼だったのだとか。

ところで、こういうお話を簡単に信じていいのでしょうか。私が調べた限り、白地沼が古くは修羅地沼と書かれていたという記録はどこにもありませんでした。では白地沼の白地の本当の意味はどういうものでしょうか。

実は、信州地方から北関東、東北に掛けて、すり鉢の事を「しらじ」とごく一般的に呼んでいました。いまでも山間部などに行くと、ごく日常的に使われています。つまり「しらじ沼」とは、すり鉢状に中央が急激に深くなっている沼という意味なのです。
このような事は、地元に住んでいて、地元の方言に日頃慣れ親しんでいれば、ごく自然に理解できることで、たぶんそれが自然な解釈だろうとは思いますが、これが学問的な証明となると、非常に困難になるはずです。
その検証もなく、唐突に修羅地沼と紹介するのは、民話の語り部ならともかく、学問的にはいかがなものでしょう。
白地沼は修羅地沼だったのだろうと解釈した人は、地元に来て近所の人にちょっと聞けばわかることを怠って卓上で勝手に想像してしまったのでしょうか。
学者の権威というものに、多くの人は疑いの目を向けることをしませんから、誰も訂正しないでいると、おおやけに発行した県史に掲載されたこのような学説が、あと数十年も経てば定説として定着してしまうのでしょうね。

記:2001/4/4(2008/5加筆)

 

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