「本当の栃木県の歴史」は、私が独自の自由な発想の元に楽しくお話するものです。学問的なお話は、その道の専門の方にお任せすることにして、閑話としてお楽しみください。そして、ぜひみなさまのご感想もお寄せください。
 
佐野源左衛門は佐野の人ではなかった?
 
鎌倉時代に、佐野源左衛門常世という鎌倉御家人がいました。ある冬の寒い晩に、ひとりの貧しい僧が、一夜の宿を願って佐野源左衛門の粗末な家に訪ねてきました。
源左衛門は、快く僧を迎え、大切にしていた盆栽を火にくべて僧をもてなしました。
貧しい家に不似合いな鎧甲があるのを見た僧が怪訝そうに訪ねると、「いざ鎌倉というときに備えて、毎日手入れをかかさないようにしている」と答えました。
それからしばらくして、鎌倉から各地の御家人に鎌倉に集合せよとの下地がありました。続々と集まってきたご家人の中に、あの粗末な家に貧しく暮らしていた佐野源左衛門の姿もありましたが、手入れの行き届いた見事な甲冑姿で真っ先に駆けつけたのを見届けた鎌倉宰相は、佐野源左衛門に、あのとき貧しい僧に扮して訪れたおり、火にくべた盆栽の礼として、その盆栽にちなんだ地名の領地を与えました。
さて、このお話は、創作話ですので、実話ではありませんから、モデルとなった佐野源左衛門という人が実在していたかどうかも不明です。でも当時の地名から、佐野という地方は現在の群馬県高崎市あたり のことではないだろうかと、一般に言われています。
佐野という名前から、栃木県佐野市の領主だろうと思われ、佐野市の郷土伝説にときどき語られることがありますが、佐野の領主だったとしたら、貧しい御家人という設定は不自然ですので、佐野源左衛門は佐野の人ではなかった、と考える ほうが自然な気がします。学問的な証明は専門家に任せるとして、ここでは、それが自然に受け取れるかどうかについてだけ述べておきたいと思います。
佐野源左衛門の家については他に群馬県高崎市上佐野町付近だろうという説、葛生町鉢木だろうという地元の説などがあります。

(2008/5加筆)

 

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