【不屈の田中正造伝: 2 天皇直訴した男】

前 戻る 次

 

明治34年12月10日。その日、国会議事堂の前にたたずんでいたひとりの無骨な男が、この日開催された、第15議会開会式に出席の帰路にある明治天皇の列に、なにやら大声でわめきながら突撃していった。
男はたちまち天皇警備の騎馬警官の機転で取り押さえられ逮捕された。男の名は田中正造。その手には「謹奏」としたためた一通の書状が握られていた。決死の天皇直訴である。当時、最高刑は死刑という重罪の天皇直訴をなぜこの男はおこなったのであろう。

これは熱血男、田中正造の波乱の人生軌跡である。

時はさかのぼり、天保12年11月3日の事、下野国の南西にある安蘇郡小中村(あそぐんこなかむら)の名主田中家に長男が誕生した。名を兼三郎(かねさぶろう)と呼ばれたこの子こそ、後の田中正造であった。
田中家は、名主とはいえ、農民に対する厚遇のためか常に貧しく、村でも中程度の規模の経営だった。これは両親の高い教養にうらずけされた思想であり、兼三郎少年もこの全ての人を慈しむ両親の豊かな愛情の影響を受けながら育った。
父は兼三郎に高い教育を受けさせる為に赤尾鷺州(あかおろしゅう)が経営する赤尾塾に入塾させた。その時の謝礼は、米1石。貧しい農家の出す金としては決して楽な額ではなかったが父は惜しまず兼三郎に学ばせた。
その父親が主家の旗本六角氏に取り立てられ割元役(名主元締)に昇進したのは、人望と高い教養にうらずけされたものであった。17歳になった田中正造青年は、この人事に伴い、父の名主職を若くして相続する事になった。
父母の物静かで厳格な性格に反し、田中正造は熱血漢あふれる男であった。潔癖で不正が許せず、常に村の若者の先頭に立って行動していた。

その田中正造が27歳になった頃に最初の試練が訪れた。主家の六角氏は安蘇郡、足利郡、武蔵国に表高2000石を持つ旗本であったが、その六角氏から、江戸屋敷普請の計画が発表され、各地の知行所に先納金の割当が発表されたのだった。
「いかに主家の屋敷普請といえど、巨額の先納金は不当で領民の実状を知らぬ暴挙である。」
熱血の田中正造が立ち上がった。各地の農村名主や農民の先頭に立って主家に対抗したのだった。後に地元の人々が六角事件と名付けた農民ほう起であった。田中正造は投獄された。

 

 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
前 戻る 次