世良田氏の謎解きに挑戦(5)

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尊卑分脈では(得川)義季には二児がある事が記載されており、長子が得川頼有、次子が世良田頼氏とあります。ちなみに「らいおう御前」は、「頼王御前」と書くのが本当で、得川義季の幼名であった証拠にその後代々「頼」の字は得川氏のいみなとなっている。という研究も古くからあります。

《得川頼有と世良田頼氏》

もちろん当時の記録の話ですので、世良田義季に他の子供がいなかったとは言えませんが、古記録に残るのは得川頼有と世良田頼氏の二系統だけです。問題の得川頼有ですが、尊卑分脈では、たしかに得川と振られてはいますが本当に頼有が得川を名乗っていたかは当時の記録には存在しません。ただし得川郷、横瀬郷などを領有していた記録があり、得川頼有と名乗っていても不自然ではありません。
ここで問題なのは、得川頼有は、宗家を継いだわけではないという事です。大半の世良田氏の領地は世良田頼氏に相続されており、しかも世良田頼氏は新田惣領権を継いで鎌倉に出仕するほどの実力を持っておりました。とするなら、その父が得川義季と名乗っていたとするのは矛盾があります。もし得川義季なら、その得川郷を継いだ得川頼有こそ嫡流であり一族を代表していなければなりません。しかし、それらしいかけらも記録にはありません。やはり素直に考えるなら、宗家は世良田氏であり、当然義季も世良田を名乗ったか、もしくは惣領制に従って分国していなかった経過から考えて、新田姓のままだったとも考えられます。庶子と考えられる分家の得川頼有と同姓では、どうも不都合です。

《その後の世良田氏》

さて、徳川氏は、その流れを世良田頼氏に従っています。これまでの私の主張ならびに先人の信頼できる研究などから結論するならば、その流れには「徳川」「得川」「徳河」と名乗った者がいなかった事になり松平姓から徳川姓になったのを先祖の姓に戻ったとする徳川家康の主張には事実誤認があった事になってしまいます。
世良田氏の世良田頼氏以降の系譜は次のようになります。

[尊卑分脈]

 義季_頼氏_教氏_満義_政義_親季_有親_親氏_

_康親_信光_親忠_長親_信忠_清康_広忠_家康

[徳川家譜]

 義季_頼氏_教氏_家時_満義_政義_親季_有親_

_親氏_康親_信光_親忠_長親_信忠_清康_広忠_家康

[世良田系譜]

 義季_頼氏_教氏_家時_満氏_政義_親季_康親_

信光_親忠_長親_信忠_清康_広忠_家康

あまりに類似しすぎてかえって疑問な三系譜ですが、このうち尊卑分脈は後半を加筆されており、徳川系譜に頼った事は明白です。徳川家譜と世良田系譜はどちらが先かはたいした問題ではになく結果的にどちらかがどちらかのコピーでしょう。
では、これら系譜を事実創作と決めつけて見た場合、実際の世良田氏系譜とは、どんなものだったのでしょうか。およそ資料に見られて確実視されているのは政義までが限度と思われるという話は、次回。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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