世良田氏の謎解きに挑戦(2)

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《新田義重置文》

置文とは、太平記の話でも出てきましたが、遺言状の事です。とはいっても今回の新田義重の遺言状は死に望んで書いたという悲愴な物ではなく、自分の考えを文書化して念を入れておくといった程度の様子が文面から察せられます。

下(花押)
こあまたあれとらいわうこせのハゝの事をゝもへハ
にたのみさうハゆつりたるなり
ハゝの事らいわうこせんをろそかにあるへからす
それにとりてもこかんとてハらいわうこせんかハゝにみなゆつるなり
ハゝかためニおろかニあるへからす
こかんのかすおうなつかえたかみしもたなか
おゝたちかすかハこすみをしきりいてつかせらた
みつきかみいまいしもいまいかみひらつかしもひらつか
きさき丁ふくしたこうやきぬま
このこうこうしたいにゆつりわたす
たのさまたけあるへからすあなかしこあなかしこ

仁安三年六月廿日 (花押)

要約すると『子供はたくさんあるが、らいおう御前の母の事を思い新田庄の空閑の地を譲る。その地とは女塚、江田上・下、田中、大館、粕川、小角、押切、出塚、世良田、三木、上今井、下今井、上平塚、下平塚、木崎、長福寺、多古宇、八木沼である。』という意味です。この文章は前回の『新田義重譲状』とほぼ同じ頃書かれた物ですから、前回の「御前」と今回の「らいわうこせん」とは同一人物のはずです。前回より譲るとした領地が増えていますので、たぶんこちらが後日書かれたものでしょう。文面から察する所、「らいわうこせん」は、実子で「らいわうこせのハゝ」とは、寵愛する女の事かと思います。このあたりは学術研究では諸説あるようですが、私は文面を素直に読んで単純な結論を出したつもりです。計算してみると新田義重が50歳を過ぎた頃のものですので、そのころ突如燃えた女性とすれば、かなり年の離れた若い女性という事が想像つきます。その子供の「らいわうこせん」はまだ幼児と思えます。ちょうど晩年の豊臣秀吉が淀君と豊臣秀頼を思い家康達を枕元に呼んで「くれぐれも頼む」と念をおしている様子がだぶって浮かびます。

《らいわうこせん》

さて、まずはその『らいわうこせん』についての考察です。これは従来『来王御前』と漢字が当てられてきて、一般にも使用されておりますが、『正木文書』以外に『らいわうこせん』の紹介された文献は一切存在しておりません。つまり『来王御前』と漢字表記する根拠は全く存在しないのです。『こせん』は『御前』の事であろうという点だけは他に考えようがないので間違いないように思えます。問題は『らいわう』ですが、江戸時代の郷土史家の毛呂権蔵らは、『御前』という表現に惑わされて女性であると誤解されてきたが、実際にはこれは世良田義季の事であると発表し、論議を呼んだそうです。その根拠は、譲渡された領地は後の世良田氏の本拠地であり、世良田義季に譲られたものでないとすると史実に反するからという物です。たしかに『御前』は男性であっても一向に構わないもので、とくにその母親に言及している点を考慮すると、幼児に対する親しみを込めた呼び方とすれば、わが子にわざわざ『御前』などという仰々しい敬称をつける理由も納得できます。
『新田義重置文』からは、「兄達がたくさんいるのを差し置いて、特別にらいおう御前の母親の為に領地を譲る約束をしたのであるから、他の者は従うように」と念を押そうとしている新田義重の腐心が良く伝わります。しかし女性ではないとしてもやはり世良田義季の事である証明は資料が不足しています。そこで、ここでは私の史観に登場願うよりありません。では以下、『ふじた史観』でお読み下さい。

新田義重は、その晩年で、「らいおう御前」に世良田郷らの相続を約した遺言を残して死んだ。しかし、正妻の子らを差し置いての、身分の低い女性の幼児に巨大な領地を相続させる事に一族はそろって反対した。新田氏を継いだ嫡子義兼は一族の総意を受けて、父から「らいおう」に相続させよとされていた土地を同母弟の義季に相続させてしまった。父親には何の相続権も認めてもらえなかった義季は、兄の義兼に恩義を感じ、以後他の兄弟が新田惣領制から離れていったのにもかかわらず、代々新田本家に忠誠を尽くす事になる。一方「らいおう」は、父義重からの譲状と置文を自分の立場を証明する大切な証拠として、いずれ家が興った場合、この領地を取り戻す事と代々家宝として伝え、それが江戸時代の正木家となる。

さて、私はたびたび『世良田義季』と書きました。すでに疑問を感じていらっしゃる方があれば、かなりの通だと言えましょう。そう、一般には彼は『得川義季』と表現されています。では、なぜあえて『世良田義季』なのかというお話は次回です。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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