置文とは、太平記の話でも出てきましたが、遺言状の事です。とはいっても今回の新田義重の遺言状は死に望んで書いたという悲愴な物ではなく、自分の考えを文書化して念を入れておくといった程度の様子が文面から察せられます。
下(花押)
こあまたあれとらいわうこせのハゝの事をゝもへハ
にたのみさうハゆつりたるなり
ハゝの事らいわうこせんをろそかにあるへからす
それにとりてもこかんとてハらいわうこせんかハゝにみなゆつるなり
ハゝかためニおろかニあるへからす
こかんのかすおうなつかえたかみしもたなか
おゝたちかすかハこすみをしきりいてつかせらた
みつきかみいまいしもいまいかみひらつかしもひらつか
きさき丁ふくしたこうやきぬま
このこうこうしたいにゆつりわたす
たのさまたけあるへからすあなかしこあなかしこ
仁安三年六月廿日 (花押)
要約すると『子供はたくさんあるが、らいおう御前の母の事を思い新田庄の空閑の地を譲る。その地とは女塚、江田上・下、田中、大館、粕川、小角、押切、出塚、世良田、三木、上今井、下今井、上平塚、下平塚、木崎、長福寺、多古宇、八木沼である。』という意味です。この文章は前回の『新田義重譲状』とほぼ同じ頃書かれた物ですから、前回の「御前」と今回の「らいわうこせん」とは同一人物のはずです。前回より譲るとした領地が増えていますので、たぶんこちらが後日書かれたものでしょう。文面から察する所、「らいわうこせん」は、実子で「らいわうこせのハゝ」とは、寵愛する女の事かと思います。このあたりは学術研究では諸説あるようですが、私は文面を素直に読んで単純な結論を出したつもりです。計算してみると新田義重が50歳を過ぎた頃のものですので、そのころ突如燃えた女性とすれば、かなり年の離れた若い女性という事が想像つきます。その子供の「らいわうこせん」はまだ幼児と思えます。ちょうど晩年の豊臣秀吉が淀君と豊臣秀頼を思い家康達を枕元に呼んで「くれぐれも頼む」と念をおしている様子がだぶって浮かびます。
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