勃興足利家(6)
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足利家時の自害は足利一族に衝撃を与えました。自害の理由を足利家執権の高階師氏に問いつめる家臣も多くいましたが、高階師氏は、重臣以外にその理由を明かすことを強く拒みました。
噂は鎌倉中に流れたが、誰もその正しい理由はわかりませんでしたので、
「足利一族には、悪い血が流れている。どうやら足利氏は代々頭に障害のある者が誕生するらしい。」
などといった噂がもっともらしく飛び交いました。高階師氏は、幕府に対し足利家時がにわかの病死のため家督を長子に継がせるむねの届け出を淡々と行いました。
「足利殿の子は何と申したかのう?」
執権の北条貞時は、北条一族にも使わない丁寧な言い回しで、足利家時を足利殿と呼びました。
「はい、烏帽子親の貞時(さだとき)様より一字をいただいた足利貞氏(さだうじ)と申します。」
時の執権に烏帽子親になってもらい、その名をもらうのは足利家の伝統でした。足利義氏は北条義時から、足利泰氏は北条泰時から、足利頼氏は北条時頼から、足利家時は北条時宗からと、それぞれ名を貰っていたのです。

家督を継いだ足利貞氏は熱血な青年でした。
「本来、将軍は得宗より身分が上である。将軍とは、もともと関東武士団を統率し、天子様の元で天下に号令する役目をもっている。それなのに今の将軍は京都より招かれた人形ではないか。将軍には将軍にふさわしい関東武士で源氏の嫡流が任命されるべきである。」
と公言してはばかりませんでした。これが意外にも鎌倉御家人の間に評判となりました。鎌倉御家人は源頼朝の元で戦った先祖をみな誇りとし、いかに勇敢に戦ったかを家の自慢としていました。源氏の嫡流の号令のもとで、天下の大業を行なうことは御家人たちの共通の夢だったのです。

足利貞氏には美しい妻がありました。父方の親戚である上杉頼重(よりしげ)の娘です。足利貞氏は子どもの頃から上杉屋敷に遊びにいくたびに見かける美しい姫に憧れていました。家臣のなかには、元々足利一門ではない上杉の力が足利家の中でますます強くなる事を快く思わない者が多くいましたが、足利貞氏のたっての望みで父家時に許され娶った妻でした。

上杉頼重の娘は清子(きよこ)といいました。清子は美しい姫でした。それと同時に決断力がある才女でもあったのです。
「私の勤めは征夷大将軍の母になる事です。」
足利家時の自害の本当の理由を告げられた清子は、はらはらと涙を流しながらも、足利貞氏に向かってはっきりと言い切ったのでした。
「おお征夷大将軍とな。それは場合によっては北条に弓を引く事になる。なかなか大きな事を申す。」
足利貞氏は驚きながらも、自分の心を理解してくれる妻を娶った事を誇りに思いました。

足利貞氏はわが子を部屋に呼びました。
嘉元3年(1305年)に清子の産んだ長子は13歳に成長していました。
「又太郎。我が父は祖義家公の遺言により義家公の生れ変りであった。義家公は八幡大菩薩の化身である。このたびその遺言により、そなたにすべてを託すとあった。つまりはそなたには本日より八幡大菩薩となったのである。このことしかと伝えたぞ。」
又太郎は色白で貴公子にふさわしい顔立ちをしていました。
そのきゃしゃな身体でうやうやしく父の前に礼する又太郎の顔は含み笑いをしていました。

2年後、足利又太郎は元服し、従五位下、治部大輔に任ぜられ、名も得宗北条高時より一字をもらい、足利高氏(あしかがたかうじ)と名乗りました。こののち北条執権幕府を倒し、京都の室町に新幕府を開き十五代にわたり栄えることになる足利初代将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)の登場でした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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